2016年5月5日木曜日

16016 ー追記 「天才」(田中角栄)石原慎太郎を読んで

16016ー追記

「天才」(田中角栄)左派のもつ日本の軍隊への疑惑をなくすために
  石原慎太郎著を読んで 


経済優先の日本の「天才」へ問題点         

石原慎太郎氏の「天才」を読んで、岸首相の60年の国会デモや、池田首相の「貧乏人は麦を食え」や所得倍増論を思い出した。
田中総理の強烈な個性とコンピュータ付きブルドーザーには、いまさらながら学ぶところもあった。当時の大卒の基本給は1964年は17千円(当時換算$47)だった。インフレはあったにせよ、いま10倍あまりの給与になったのは、田中のおかげもあったのだ。

田中首相はロッキード事件があり「天才」の判断基準に抵抗があるのは、すべての人は金と人情で動かせると考えていたように見える。問題は裏金あつめの達人で、裏金が表に出て退陣し、反省もなく影で力を維持した点だ。貧しい雪国からはい出て、大多数の庶民の胸のつかえが晴れるようなセリフを放つ気持ちのよい印象も残っているが。
今の賄賂でゆれる中国と似た点も多いが、やはり残した問題もあると気づかされた。

中国との国交回復交渉については、『一寸待ってくれ』といいたい違和感というか、こうあってほしかったという若干の私見をのべたい。無論、実際に起こったことの内容がこの著書のとおりであったならという想定に基づいての話である。  それは、戦後復興でやり残してきたことで、これから国内でも憲法の改正に野党の合意をえるために必要な部分があるのだ。

同書108~112ページ;

1972年9月の日中交渉のかみ合わなかった点;中国二国論 

毛沢東の考えを田中角栄は想像しているが、やはり外国人の考え方を理解していない。あんなに狭いものだったのかなと落胆した。あらゆる生死の谷を乗り越えて生き延びてきた中国のリーダー毛沢東の考えを、(天才)政治家・田中かも知れないが、日本人の頭のままで想像してよいものなのか。歴史の都合の良いところだけをみる無理が感じられ、大国を独裁(社会主義)体制でゆきたい相手の考えにまったく及んでいないのだ。

それは自分達(田中と大平)が相手国に乗り込んで、戦後処理を急いでまとめたいという立場であっても、「平仮名と片仮名まで創り出した偉大な日本」と持ち上げ、「日本に留学し学びたい」とへりくだって見せた相手への返答のちぐはぐに始まっている。

そんな毛に対しては「自分達を暖かく迎えてくれて感謝している。話がまとまり日中の復興合意ができたら、ぜひ日本にお越し頂きたい。歓迎する。」との返事が通常である。 それを「どう扱ってよいか分からぬから、よその国に行かれては」という大平には、何という答えだろうと失望した。毛は「友好的な人ではないですね」と言い返したという。

米国にたとえ憲法も押し付けられたとしても、
1)「米国には国防から日本品の輸入まで、何もかも世話になっているので、その米国と平和な関係を維持しつつ進めたい」。
2)「日中戦争時に日本が戦っていたのは台湾にある国民党政府だった。それを台湾政府が日本に対する損害賠償請求権を放棄して和解し、戦後の貿易関係を復活させた国を無視する訳にはゆかない」というのが出発点でなければならなかった筈だ。
歴史を持ち出すなら、中国二国論に戻ることになると言う点を、現在の中韓に明確に伝える方が良いのである。韓に対しては、1910年まで戻るつもりかと

後知恵という批判を恐れずに言えば、二つの中国論が一番筋の通る話である。これをスタートとして言わずに済ませ、日本は戦後の賠償なしでの国交回復を急ごうと考えている。

現に(のちに明らかにされた報道では)台湾との間で賠償請求権の放棄は、同じ国であるから放棄は終わっているとし日中交渉に持ち出す必要はないとした考えでもあった。

軍の統帥権の越権で軍国主義を止められなくなったという認識はなかった?

毛は日本の軍国主義(近代の3権分立のほかに、昭和初期に統帥権があるとされ、軍人支配につながり国家そのものをほろぼすという見方;注)への反省はこの著書の中にもない。戦勝国側の見方との大きな隔たりを感じさせ、『ビンの蓋』の米中議論であったのだ。 (ビンの蓋;米軍基地が日本の軍国化の監視役)(注;司馬遼太郎;この国のかたち・五、191頁)

毛の指摘は、始めは「日本の敵は4つあるソ連、欧州、日本軍国主義、宮本の日本共産党だ」という話だった。72年北京の5日間)(NHK)
田中の挨拶には『侵略・苦難を与えた・深い反省・二度と繰り返さない』の部分が欠けていて、『ご迷惑』という軽い言葉で侮辱したという中国側の指摘があった。
また、軍国主義者に支配されていたという自覚への逃げを用意してくれた。それに対して日本人自身が国内で軍国主義者に支配あるいは統治されていた意識はなく、国内統治は戦後も継続していた気持ちであったことになる。

そのため次に会ったとき、毛は「日本の敵はソ連、米国、欧州、中国」であると変え、中華人民共和国の立ち位置のスタートにして、日本への警告としたのではないか。
そして、日本が「戦時中はご迷惑をかけたという女性のスカートに水をかけたほどの些細な誤り方では受け入れられない」と周恩来は突っぱねてきたのだ。

苦しい説明だが、日本も「戦争になったが、その時期を除けば友好的な関係であった台湾に、戦後賠償を放棄してくれた事への感謝を示すためにも、良い関係は是非維持したい。
その上で内戦で国民党を台湾へ追い出した党の創設した新しい国、中国とも友好でありたい」というところからスタート出来た選択肢があっただろう。

そうしたらどうだったのだろうかと感じた。少なくとも、新たな友をつくる為に、古い友を裏切らないという主義・主張は筋が通るものだと思う。

「天才」の不完全な国交回復で民間がつけを払わされたのでは        

日本が30年代の後半は軍人によって支配されていたことを認め、また中国が2カ国であったことを認めて、始めて現在それが繰り返されようと理解できるのではないか。その点が、政治主導で賠償責任を避け経済性を優先するあまり、経済的な技術支援と言う金額の空欄な小切手を置いて来たといえるのではないか。                 現実の「天才」のやり方でよかったか、大いに疑問だし、むしろ賠償責任を認め、復興がその分おくれてもきちんと延払いで払うほうが良かったのではないか。        

さまざまな現在の問題をいずれが解決しやすかったのであろう。『ビンのふた』は日本軍国主義者の台頭を防ぐために今も日本にある米軍基地として残されたとみれば、皮肉にも今それが中国への抑止と受け止められている。


反省なき日本の「天才」への毛からの警告

72年北京の5日間)(NHK動画)によれば、毛沢東はくどく繰り返し田中に伝えたかったメッセージがあったように感じる。 それは上述した2度にわたる「日本の敵」と関連し、毛が愛読し「天才」に書棚から出して「資治通鑑」と「楚辞集注」をくれたという。過去の中国の歴代支配者にも『出来たやつと大馬鹿がいる』という例を記述した本らしい。出来たやつは今の時代では誰だろう。大馬鹿になるなと毛に警告された人が、いま「天才」と位置づけられて良いものか。

統帥権の問題は、戦争の開始・停戦などを誰が判断すべきかという問題でもある。私見をのべれば、現在の憲法には記述がないが、万一紛争が起こった場合も、軍が独自に戦争を始めたり停戦しないということはないだろう。
軍人にも戦闘を終われば人権があるはずだ。多数の兵士を特攻隊で死んだ。兵や民間人を餓死させたような戦争は、もっと早く降伏すべきだったのだ。
これを原爆2発受けるまで、シビリアンが止められなかった点で、軍に国民が支配されていたとしか説明できないのではないか
戦後の交渉時に、その部分が(相手への)一切説明がない点は不十分だと考える。
また普通の国となるために、万一に備え、軍人を裁くための軍法裁判所を設けるべきだと思う。また軍人の政治家へ道は制限を設けるべきかもしれない。

この点は、司馬は上述書でさらに追加している。
(明治の元勲の1人)木戸の政治家としてのえらさは、政治が軍を統御し、軍を政治化させないという堅固なルールを藩内政治の段階でももっていたことでした。彼は奇兵隊の政治団体化をおそれていましたし、のちの明治政府に出てからも、この1点にかわりはありませんでした。明治政府になってから、西郷が軍を代表し、しかも圧倒的な人望があったことに、つよく警戒していました。」(上述書256頁)
軍人は表にはでず、平時に政治に参加してはならないと規制を憲法に加えたら、ずいぶん安心する市民や周辺国もあるだろう東郷や乃木に比較し、まったく華やかさのなかった。長州の村田蔵六(のちの大村益次郎)は最もすぐれた司令官の1人ではなかったか。

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「//ja.wikipedia.org/wiki/日台関係史」を引用する。
 日本は、195198サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄したが、この講和条約には中華人民共和国、中華民国のいずれも参加しなかった。その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始。1952428日華平和条約に調印、日本と台湾(中華民国)との国交が回復した(なお、サンフランシスコ平和条約および日華平和条約では台湾の主権の帰属先は未定であるという台湾地位未定論がある)。
同条約議定書で中華民国は日本に対する損害賠償請求権を放棄したことは、蒋介石総統の「以徳報怨」の一つとして当時の多くの日本人に受け止められた。また、日本からは白団と呼ばれる有志の軍事顧問団が台湾に渡り、金門砲戦などを指導して台湾の中華人民共和国による併合から守った。
非公式実務関係の形成1972 - 1989年)
日本と台湾(中華民国)は、国交断絶から間もない1973初頭、民間交流を従来通り維持させるため、実務的な窓口機関を相互に設置した(日本側は「財団法人交流協会」。台湾側は「亜東関係協会」。1992、亜東関係協会東京弁事処は台北駐日経済文化代表処に改称)




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