2016年9月30日金曜日

1493-世界を変えた大陸間の「交換」(チャールズ・G・マン著、布施由紀子訳)を読んで(2


1493-世界を変えた大陸間の「交換」(チャールズ・G・マン著、布施由紀子訳)を読んで(2)

欧州の奴隷は、米国に持ち込まされざるを得なかった
アダム・スミスなど進歩的な人々は英国に限らず、奴隷制度や人身売買を強く非難していた。道義的にも非人道的であるばかりか経済的でもなく、「威張り散らしたい欲望」から生まれた階層もあるが、経済的にも奴隷の市場価格のほうが、イングランド人の年季奉公人のコストより3倍も高かったからである。

16~18世紀には英国海岸はムスリムの海賊が多数で襲い、船乗りや兵士、商人などが拉致され奴隷という資産として捕らえ、あるいは船ごと乗員を売りとばし、異教徒やカトリックを非難した。

イングランド人の奴隷がエジプトやアルジェ、モロッコなどに売られて1千人単位で住んでいた背景から、英国としてはスペイン・イスラム人などを敵視する背景があり、十字軍では終わっていなかったといえそうだ(参照グラフは編者の引用; ペルー銀に関し真鍋周三を孫引きしたhttps://www.kufs.ac.jp/ielak/pdf/kiyou12_01.pdf

スペインの隆盛は、銀の産出納税額の推移グラフで見られるように、18世紀の初めまでで終わった。16~18世紀に産出された銀は15万トンいじょうに達し、欧州の銀保有量は倍増、中国にもその1/3から1/2が渡ったという。
現代的にいえば、大幅な金融緩和インフレ策だ。中国はチャンスを逃さず、あらゆる欧州物品をコピーして出荷したというから、欧州の産業を食いつくし、現在と変わらないやり方だ。

有名な景徳鎮の陶器は人材が短期労働者で置き換わり、技能工の人材を育てることはしなかったようだ。茶畑は山の頂上まで。絹も労働力不足で継続性に疑問。
中国人は基本的には、金になれば楽な方向に向かうとみえる。伝統と技術に誇りをもつ日本的なやり方はとらない。(最近の湖北省の茶畑;)    

最近の英国のEU離脱は、かってイスラムにより奴隷にされた経験もあり、イスラム難民受け入れに対する英国人の拒絶反応は根深いのだろうと感じさせられた。経済優先の大陸EUのエリートとは違うのではないか。)

1650年ころは、アメリカに到着する奴隷は最初は少なかったし、ヨーロッパ系入植者の3分の1から半数は年季奉公人だった。しかし商業の進んだオランダ他では、すでに自国にも多数の奴隷を抱えていて、新大陸のヴァージニアでは奴隷の数は1万5千人に急増した。
こうしたヨーロッパ発の年季奉公人は奴隷よりは安くても、1~2割の生存率では引き合わず、マラリアにも生き残る免疫力をもった奴隷をアフリカから仕入れる方がよいと変化していく。植民した年季奉公人は契約を更新するよりは、安価で広い土地を入手して、自力で農地を開拓しようとする比率も増えていった。   

マラリアが奴隷の需要を高めた   
目に見えないマラリヤ菌が原因で半数を失う入植地よりは、10人中9人が生き残る農場のほうが、経済的で競争力もあり拡大できるため、奴隷を認める政策との衝突で、米国でも1861~65年の南北戦争(内戦)にいたるのだ。これは北東部の2次産業と農業の衝突でもあった。
1641年ころ、南米でもブラジルの南に位置して涼しくて、マラリア蚊の棲まないアルゼンチンにも20万人以上、米国北東部マサチューセッツでも8%の奴隷がいた。マラリア;国立感染症研究所; 

マラリアとは別に奴隷制度は存在していたが、マラリアが多いブラジルには奴隷は220万人だった。1781年の米英戦争の勝敗には、マラリア蚊の影響は大きく、英国が敗れた。その後の南北戦争では、当初予定していなかった奴隷解放宣言を北軍が採用して勝利をえた著者はいう。マラリアに強い奴隷が米国に送られ、独立戦争や南北戦争で奴隷解放のインセンチブになったのは驚かされる。

奴隷労働者の急増と拡大

イングランドのアフリカ大陸への進出で、アルジェリア、ナミビアなどの戦争経験から、イングランド出身兵の48~67%が疾患したが、現地兵は3%しかかからないと判っていた。渡航賃を負担する雇用側としては、失業者の多いロンドンの人間を4~7年の期間奉公人として連れてゆけば、
年に10ドルとか半額くらいで済み、安いが、半数が病死したり1年も療養されては元も子もない。
それで現地で奴隷を25ドルで買うほうがよいという判断が一般化しはじめたのだ。
(欧州各国がアジア・アフリカなど更新国に先をあらそって進出した理由は、巨額な銀の保有により力で拡大するスペインに対抗する必要があったと感じられる。)

そのためには、とにかくマラリヤに罹らない免疫体質を持っていることであった。そうした人間はアフリカ大陸の赤道あたりの中央部に多いとわかり、なるべく多数を運ぼうという海運業者の欲がでて、強制的につれていくという非人道的な人材売買が行われ一般化していったのだ。これに対し、強い反対論をのべた者も少なくないが、遠い世界のことで、強制には至らなかった 。    

日本では欧州の奴隷というより荘園の農奴、のちに小作人という階級があったが、戦前は家族が食べるに精一杯の状態で、皇室の所有ではなかったため、階層の近い地主とは若干情のある関係だったと理解している。自己の意に反して雇用され、生涯を縛られるのが農奴だとすれば、居住場所の自由があり、さらに年季明けで自由になれる奉公人は、その中間であろう 。   

都市国家から始まったギリシャや、共和・法治と武力で拡大し1都市が国となったローマ時代から、カソリックによる統治、そして自由化。立憲君主制、1党独裁制まで広まった近・現代まで、戦争で人や財産を取り合いした時代があった。ルネッサンス後は契約自由と貿易の時代に変化がはじまった。だが紛争の解決手段としての戦争は、終わっているだろうか 。 現実は未だそう単純ではなさそうに、私には思える。)    

奴隷の独立と解放  
もともと中央アフリカでは、土地は国王のもので、住民は土地に所属していたから、売買できる対象は土地ではなく住民だった。1550~1650年の100年で65万人が海を渡って売られてきた。
その買主の扱いにより
、 ブラジル、ペルー、カリブ海では、奴隷が集団逃亡するケースが出た。
スペインは入植者と現住民との混血をみとめ、エクアドル、コロンビア、パナマ、メキシコなどで自治区を許してきた。だがキリスト教に改宗するか、入浴をするか、衣装も欧州の習慣に従うか、などでの差別があったようだ

マルーンと呼ばれる逃亡奴隷はグループで生活し、フランス人入植者を追放して1800年には独立してハイチという国ができた。マルーンは英国人ドレークと組み、銀の輸送路を襲撃し、メキシコ、中米やブラジルでも生き残り、アマゾニアンの権利を認めようとする動きがある。


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