2016年7月19日火曜日

16026 自分のために力いっぱい生きよう (国の内外を問わず)

16026

自分のために力いっぱい生きよう
(国の内外を問わず)


人に好かれようとすると、自分の目的が達成できない

人にどう思われるかを気にすると、非常に不自由な生き方になる。絶えず人に合わせてゆ八方美人は自分で目的が立てられず、不信感を持たれる理由になる。


明るく力の出る生き方;
1.好かれなくても、自分のために生きよ
2.人がどう見るか気にしない
3.思考の枠から跳び出せ
4.反対のためだけの議論は排する


政治家が典型だが、次の選挙で不利になることは、良いと分かっていてもやらない。しかし、どうせ世の中の半分の人は、貴方がなにもやらなくても、貴方を好きにも嫌いにもならない。『自分のことを良く思わない人がいるということは、私たちが自由に生き、自分の生き方を貫いているから』
「自分の方針に従って生きている」とさえアドラーは言う。それが現実ならば自分のことを少々嫌う人がいても、自由度の高い生き方をした方がよい

米国のほうが自由だと感じるのは、貴方が何をやろうとやるまいと、それが自分の利害に関係なければ反対はしないからだ。日本に戻ると、『空気が読めない人ね』『それは具合が悪いでしょう』といわれ、そこでオシマイと考えるのである。

やって出来ないと思うことは、失敗を恐れるからというのは本当だろうか。やらない人も多いが、やってみたら出来ることも多い。こういう人は自分を過小評価しすぎで、力いっぱい生きていないのではないか。
何か画期的なことならともかく、0か100かの成功率ではない。殆どは60%から80%の間の違いである。逆に誰もが賛成する(反対しない)ことは、現状維持でしかなく、それでさえ反対する人がいたらどうしますか。米国では100点を取らせたくて、110点満点にする教師もいると聞いた。

「どうして欲しいか」を発言しなければ貴方の意見は聞こえない

自分の意見を持たなければ、誰もあなたが何を希望しているのかを聞いてくれない。その程度の勇気を持たない人は、大げさにいえば民主主義の社会には生きるのは不適切なのかも知れないのだ。つまり勇気のない人では、民主主義は守れないのだ。

 自分のために生きよ
念のため云えば、人のために生きるなというのは、自分のために生きよということ。
それが人のためになるのは当たり前で、そうでなければ収入はないからだ。
他人の期待を満足させるために生きなくてもいい。他人も私の期待を満足させるためには生きてくれてはいないのだから。自分の目的を満足させるために生きればよい。

つまり自分のやりたいことに相手の賛成が必要なら、強くお願いして賛同してもらう必要があるが、そうでなければ相手がどういうかは気にせず、どんどんやるほうが良いのだ。
だが、重要取引先のオーナーの期待がある場合はどうだろう。60%達成でも70%達成でも、続けているうちに達成率は上がってくるから、やったほうが得なのだ

分かって反対するなら、その人間にやらせたらどれだけ出来るか。結果はメチャメチャだった場合が山ほどある。反対するだけでは、その人間が出来るという証明にはならないのだ。それは政治の話しに限らないのだ。
メニューの選択よりは複雑な比較や選択の話では、なぜこちらを選ぶべきかという比較を説明できる能力が求められる。
任せられても、ベストな選択をまって欲張りすぎれば、時間だけは空費して混乱してしまう。その判断がつかない人は、そういう話に耳を傾けて自分の判断力を養うしかない。

つまり、反対をされるのを恐れるのではなく、自分はこちらを優先したいという意見を持ち、それを発言すると必ず反対する人ができる。そのとき初めて、あなたは自分が価値ある存在になると考えればよい。そうでなければ、人の意見を賛成して、その人が行動できるか確かめて、それに奉仕したり支援したらよい。

② 過去の原因を探しても未来は来ない(やらない原因を過去に求めているだけ)
問題があるときは、その原因が過去にあると考える人は、「その原因が正しいことを前提にして」、「できない理由だけに使う」。私の経験でいうと過去と比較して待つ人は、永遠に何も変えない人たちである。
未来に目的や目標を見る人は、過去を見て役立つのは問題の予防だろう。熊本のような土砂崩れの危険な場所は全国にあるから、待たずに国交省のガイドで急ぎ実行すべきだろう。(土砂災害防止法の概要http://www.mlit.go.jp/river/sabo/sinpoupdf/gaiyou.pdf

つまり、過去の経験・理性・思考を使う人は、それを使うことを選んでいるが、未来を選ぶ人は、目的のために思考をつかう。どうすれば達成できるかと。
それができないのは、やたらに思考が細分化され、規制で画一化されている枠や空間の箱があるからだ。たとえば町村に並木道やバイク専用の道を想像できる人は、今の街路を広げるか、別な場所に新たな町をつくるしかない。あとは時間と費用の問題だ。  

思考をわくにはめようとするのは、上から目線だ、ため言葉だという昔の儒教の階級ことば、業種別、会社別な企業内のウチ・ソトの思考で、米国には余りない。ようするに、因縁をつけたり、けちをつけて、自分の立場を上に持ってゆく隣国人と変わらない。
隣国が投げてくる『歴史認識(こんなものは彼らは持っていないで、日本人を縛り付ける為に引用している)』、こういう壁を取り払ってみると、晴れ晴れとした世界がある。
要するに、何が言いたいのか、どういう人間関係を作りたいのか、ただ訳もなく偉そうにしたいだけに見える。

ある行為Aが善であると知っていて行わないのでなく、行動を先送りして、あとから別のBがその時点での自分に善であると判断しているだけのこと。
つまり、ある行為やある時点でやらない理由がない場合、次の時点では別のやれる行為があるかも知れないから、今はやらないという理由付けを常に作ろうとするのだ。    「分かっているが出来ない」という時は、出来ないのではなく、やらないだけである。

「ある時点Aに、最善であることAは、ある時点Bには別の最善Bに変わっている。AでなくBにするか、時とやる事の変更は自分がしている。」とアドラーはいう。
選択責任は選択する人にある。それを時という時点のせいにしたり、別の選択肢にする理由にして、ぎりぎりまで選択の余地がなくなるまで待って、已む無くという形で決める。本当はどちらでも殆ど変わらないし、遅らせる理由もない」。これは反対論にむきあう勇気がない弱さだけではないか『アドラー』

③ 好かれようとするのは(不特定多数むけ)人気商売
何をやらせても出来ないから漫才やコントをやっているという人もいる。一寸かわいいからと女性の合唱やダンスをやっている人も多い。歌手を志望しても続かない人も多いのは、不可欠の声量・音域・声のよさをもたないからだ。それでやたらにグループでやろうとする。人に優る身体能力、充分な訓練に耐えられる意志力が伴う人。
スカウトされて、訓練を続ける力や送り迎えの費用を払いつづける親類、声援し続けられるサポート。こういうものがそろった人がスポーツや芸能の世界に生き残るのだろう。

周りの夢や期待を背負っている人気商売の最たるものは芸能・スポーツ界と政治家であろうか。人気とは何か、イチロウ選手がはっきり言い切ってくれたが、単なる声援だけをお願いしないのはこの人らい。国際競争で勝ち残る力(努力)と爽やかさを感じた人も多いだろう。声援がなくても頑張る人が多い国は強いと思う。

反対意見を抑え「やるとしたら、どうやるか」だけを考える

不毛な議論をせずにポジティブにするためには、会社でも政党でも似ていて、執行部(与党)が提案する議題を提案する権利があると仮定して考えるメカニズムをもつことだ。提案権は弱小政党でもあると仮定すると、その中での優先権をつくりあげるのは、やはり与党がもつということにならざるをえない。つまり登る山は与党が選択するが、どの道を登るかはどの政党も提案でき、それの中から選んで検討する。提案の無い、あるいは全く実現性のない提案は没にできるとする。

突如膨大なデータをだして、3日で意見をだせというような無茶なことをさせない為には、金額により検討期間をきめる大枠を作ってはどうか。
なにを言いたいかといえば、経営でも政治でも、反対のためだけの議論はさせない。
優先事項を選ぶ理由と、それをどう達成するかだけをポジティブに考える人間を、育成するという仕組みが要るのであるということ。

もう1つはやった人には、上手く出来たら桁違いの褒賞をだすことだろう。      毎年宝くじで選び、特賞をえらび賞をだす。企業別でも新しいことにチャレンジしたお陰で、1千万円の余計な収入があった場合、たとえば利益のでた初年度は3割、2年目1割という比率で実行部に利益を分ける。
その中で業種、職種の拡大に貢献したと競合先が認めるものに賞をだす。そうすれば皆の目の色が変わるだろう。

勇気と覚悟の要る職業

命がけな職種は特別あつかいされても良いと思う。つまり人のために命を賭ける職種である。むろん自衛軍の兵士も含めて当然と思うが、一部のジャーナリストや、消防夫などもある。

バングラデシュで何人か日本人が亡くなった。残念であるが、英雄として迎え、手厚く葬って欲しい。またこういう人達を守る護衛はつけても構わないのではないか。インドの主要貿易相手国にリストされるくらいに命をかける人は日本にもいるのではないか。

ジャーナリストの世界でも、昨15年1月後藤健二さんが命を覚悟してシリアに出かけ殺害された。形は違うがそれぞれの職業人の覚悟の生き方を見いだせる。        職種により命をかけないと、実際の現場が報道できないから、そうした人を応援できないと、限られた情報しか入ってこなくなる。危ないから行かせないのは一般の人達で、危険な職種はリスクに対する報酬と、それを守ろうとする体制・精神力が求められる。

それぞれに対し賛否があるだろうが、再選を考えるとどうしても、八方美人になりがちの政治家には、いま少し勇気や覚悟を望みたい。アメリカや欧州でも日本より危ないところは少なくないのだ。

一般産業の違いは周囲の期待だけなのだろうか。先述したように業界が長続きしないものは、1生をかけて飯の種にするものには出来ない。サラリーマンでも起業家でも、それぞれが勇気と覚悟がいる点では変わらないと感じる。違いは八方美人では生き残れないし、人が食わせてくれる訳でもない。

人質の救出の件; 
シリアの件に戻ると『犠牲者2名は最悪の結果』という批判をするメディアや野党人がいる。こんな非常識な情けない人達はあるまい。人間の命が掛かっている時には黙し、それを利用して自分の立場や利益に誘導しようともみえる。価値観がないとしか言いようの無い議員が多すぎる。
ヨルダン人に対して、『パイロットより日本人を優先して助けて下さい』などとは口が裂けても言えなかったから、一緒になんとかという気持ちを伝える苦労は並みではない。 

こちらは過去の地域貢献と難民救援活動である。相手がそれを利益だと思わなければ取引はできないし、予防もできないのだ。こうした苦しい現地での交渉する人の立場と心痛を思いやるのが、非常時の同じ日本人として味方というべきだ。つまりヨルダンとイスラム国とは交渉する利害があるが、日本は当事者になりにくい。

この犠牲者のジャーナリストの母が韓国人であるらしいというネット動画の騒ぎも情けない。だから国としてはどう違った判断をすべきだというのか。
在日であろうと無かろうと、命がけを覚悟して日本人として生きている人間は、政府として守ろうとして当然だろう。英雄とよべるから人物なのだ。私見をいえば、国内の利益を他国に渡し友好を図るよりは、自国や自国民の利益を守ろうとする人を増やすことは、全体のためにも個人のためにもなると考えるのだ。


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