2019年10月29日火曜日

番外 慰安婦・徴用工の捏造と難民問題

番外 慰安婦・徴用工の捏造と難民問題


今後韓国からの難民と在日外国人を統治する組織が必要だ
徴用工の捏造と韓国内裁判;
韓国・現政権の歴史偽造と過去の条約否定でゆする悪癖

下に述べる兵役軍人の応募倍率からみても、強制徴用の必要はなく、当時軍人支配の時代での日本では、徴用は本気で行われたのは軍需が優先されていた
この事例、徴用工とは日本の朝鮮半島併合統治下(1910年~1945年)で生じた日系企業と半島居住韓国人との雇用関係で起こった異例な例である。
実際の朝鮮人の雇用では、軍の徴兵と似た民間工場の就労者の強制的な雇用は終戦直前の1944年に始まっており、敗戦の色濃くなったため戦死した補充に本土の日本人が徴兵され、工場や炭鉱労働者の欠員補充であったという。
 (その前例は売春婦の就労が強制されたと捏造した、恐喝的賠償要求であった。近年になり、これは当時の合法的な商慣行であり、軍の採用も有償で行われ、一般の給与の56倍が報酬として支払われた証拠が数多くある。つまり強制する必要のない有償サービスとされる。これらは当時敵対した米軍のインド・ビルマ方面・心理戦部隊の慰安婦の尋問記録に採用方法の記述がある。
(写真;ビルマのミッチーナでアメリカ軍に捕らえられ尋問を受ける慰安婦。1944年8月14日)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E6%88%A6%E4%BA%89%E6%8D%95%E8%99%9C%E5%B0%8B%E5%95%8F%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88_No.49 Prisoner of War Interrogation Report No. 49.

その後、日本と韓国のあいだでは戦時の賠償もふくめ範囲と金額をめぐり長期にわたる交渉が持たれ1965年合意に至った。
左派強要的救済弁護士の職歴を使い、国家間の合意からは漏れた個々の国民の精神的損害の賠償を要求すべく、特殊訴訟を起こさせ、迎合する判事を増やし意に沿った判決をえて、同国に投資した法人からの損害への差し押さえの恫喝を始めたものである、と私は受け止めているが、そう大きな誤解はないだろう。

若し韓国がこのいかさま裁判で日本企業の資産を没収することがあれば、在日企業の資産を同額抑えるという臨時立法を成立させるべきではないか。
日経新聞10月31日は『文在寅政権は日本企業が主体となって賠償金を支払わなければ原告が納得しないとみる』それがどうしたと言いたい。日本企業の意見も書かず、記者の推察を書かないでほしい。

この結果合意された金額が日韓政府間で支払われた。
問題は、韓国政府が国民にその合意内容を公表せず、国民に知らしめず、国民への賠償としての支払いが行われず、他の国家事業などに流用された事にもある
つまりは、国民には日本からの支払いに対し感謝の念をもたぬ「払わせた」という仕返し感か。あるいは加害・損失があったとしても、金銭的賠償支払いは上層部で吸収されてしまい、一般市民レベルでは救済を感じることは無かったと言える。
こういう裏切り、或いは合意違反がある場合は、この国との合意は2点での改良が不可欠である。
1.内容を直ちに公表し、両国市民に知らしめること。
2.違反行為がある場合を想定し、同国からの担保をつませるか、一定の領土を租借(そしゃく;国家が他国の領土の一部を借り受けること権を持つことを合意すること。
3.第3国が証人になること、あるいはエスクロー勘定に補償金を積み立てて5年間とか、一切異論を唱えない期間をもうけ、そのあとはそこから1定期間に取り崩せるようにすること。

本事案については、幾つかの奇妙なあるいは非合理的な部分がある
1.主たる3点の疑問
1.―(1)第1には、この事例が発生した期間が大韓民国の創立以前の1930年代後半から1945年の終戦に至る期間に発生したものである。
理由は日本の国税をつぎ込んだ統治が始まった1920年ころの半島には、人権も、姓もなく、極端な貧困、不潔さ、警察の拷問があり、精神的な苦痛に満ちた王朝統治にあったから、日本のような規律のある清潔を重んじる社会とは比べることもできぬからである。
1.―(2)第2点は、この期間に生じたすべての損害は国家間で認識され合意されたこと。合意されなかったことは、合意の範囲を超えた個々人の心情や精神的な苦痛、打撃など、国家間の交渉では議論され認識されなかった事例に対するものだとするが、詭弁的な奇妙さを感じるからだ。
非合理的な比較として、国家間の合意は、1919年の地域的反乱の後、急速に改善された統治、すなわち8割の議員は朝鮮人によるもであり、日本の統治はこれらの両班(貴族的官吏)によるものになっていたので、上部構造は日本の統治下にあったとしても、一般市民に対するものではなかったということになっていた。
1.―(3)第3点は、統治初期の部分的ストを除き、この期間は併合された朝鮮国民は統治国たる日本とは戦争状態にあったことはなく、日本国の市民として認識され、雇用され、課税され、生活しており、多くが日本人としての氏名に変更を希望したという記録がある。日本国政府は半島での財政は税収以上に支出し、インフラ投資他に本土から持ち出していたので、その慣習に慣れた指導層が、1948年の独立後、自立した半島内での収支バランスに苦労したことはあったかもしれぬが、半島の税収を当てにできた状態ではなかったはずである。

この35年間の間に、日本政府は下記の投資を行い、それはそれ以前に比べても遜色ないどころか、劣悪状態にあった半島国民の生活レベルを急激に向上させるものであった。

2.併合時の人口は今より自然増が右肩上がりで、志願兵も募集人数の20~45倍だったPopulation of Koreans in the Peninsula during annexed years  by Japan (1910~1945)ウイキペディアを引用する。
1895年ころのアジアでは清帝国が最強国とされ、ロシア帝国が欧州では最強であり、旅順に海軍基地を築いたため脅威を感じて開戦された。李王朝は、このままでは国として維持できないと考えたため、日本が1910年併合となり、日清、日露戦争が19045年に戦われた。
結果米国にて日露は講和を結び、大韓帝国は日本の統治となった。
徴用工が強制だというが、下表のとおり朝鮮人の41~45年までの軍人応募は20~40倍の倍率に達しており、強制=徴用の必要はなかったと言えるだろう。

朝鮮半島居住の朝鮮人;万人
1904
対比
1904
710
100
1914
1562
220
1924
,762
248
1934
   2051
288
1942
253
359
このころの半島民の生活は劣悪、貧困なうえ清国の柵幇(臣下の礼をとる)属国であった為、英国人旅行記などに残る記述は悲惨そのものであった。官憲の拷問は極端で、見かねた日本からの伊藤博文総統は1908年には拷問禁止令を発布、差別制度を廃止させた。
日露戦争時の1904年から朝鮮の半島居住者の人口は表の通りである。
毎年のデータもあるが、人口が減少した年はない。 (ロシア統治になっていれば。こうは行かなかったはずだ。)

併合が不法か否か国際検討会

Population of Koreans in the Peninsula during annexed years by Japan (1910~1945)ウイキペディアを引用する。

年次
志願者
合格者
志願倍率
1938
2,946
406
7.3
1939
12,348
613
20.1
1940
84,443
3,060
27.6
1941
144,743
3,208
45.1
1942
254,273
4,077
62.4
1943
303,394
6,300
48.2
合計
799,201
17,664
45.2

3回会議[編集]200111月にハーバード大学にて開催。第1回、第2回を引き継ぎ、締めくくりの役割を持つものとして開催[1]。日韓米のほか、英独の学者も加え結論を出す総合学術会議だった[2]
日本側からは5人が参加したが、海野福寿明治大学教授の「不当だが合法」論や笹川紀勝国際基督教大学教授の不法論など見解が分かれていた。韓国側は4人が参加し、「条約に国王の署名がない」ことなどを理由に不法論を主導している李泰鎭ソウル大学校教授を始め、全員が不法論で会議をリードしようとした。
               
しかし日本の原田環広島女子大学教授は併合条約に先立ち、大日本帝国大韓帝国保護国にした日韓保護条約(第二次日韓協約)について高宗皇帝は条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していた事実を紹介し、注目された[1]
併合条約に国王の署名や批准がなかったことについても、国際法上必ずしも必要なものではないとする見解が英国の学者らから出された[2]アンソニー・キャティダービー大学英語版)教授は、そもそも当時、国際法といえるものが存在していたかどうかさえ疑わしいとし、特定の条約の合法、違法を判断するに足る法を発見するのは困難であると主張。
国際法の権威ジェームズ・クロフォード英語版ケンブリッジ大学教授[4]は、当時の国際慣行法からすると英米を始めとする列強に認められている以上、仮に手続きにどのように大きな瑕疵があろうとも「無効」ということはできないと指摘した[1]

軍人志願者
朝鮮人日本兵」、「朝鮮軍 (日本軍)」、「間島特設隊」、および「満州国軍」も参照; 日露戦争を機に大韓帝国に駐留した韓国駐剳軍(ちゅうさつぐん)を前身とし、明治43年(1910)の韓国併合に伴い朝鮮駐剳軍に名称変更、大正7年(1918)に朝鮮軍となった。司令部は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の京城府龍山(現・ソウル特別市龍山区)に移転した。

1937に日中戦争が勃発すると、朝鮮人からも志願兵を募集[12]し、多くの朝鮮人がこれに応じた。実際に、1942に行われた朝鮮出身者に対しての募兵では募集4,077名に対し、254,273名の朝鮮人志願兵が集まり、倍率は62.4倍に達した[13]。ほか軍属として戦地に赴いた者も存在した。
19444月の法改正によって19449月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は19451月から7月の間に限られたため、訓練期間中に終戦を迎え、実戦に投入されることはなかった[16]
昭和20年(19452月、戦況逼迫に伴い17方面軍が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。

1904年に日露戦争で日露戦争(にちろせんそう)に関しhttps://ja.wikipedia.org/wiki/% E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89 露:Русско-японская война()(ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー)は、1904明治37年)28から1905(明治38年)95にかけて大日本帝国ロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。

補記
教育機関の改善;小学校数、中等教育、高等教育、大学校
道路交通網;首都周辺に至るまで、反乱を恐れた李王朝時代は人力背負いに必要な歩行幅の往来道路だったが、車馬交通用に改善した。
法的改善1908年(統治準備期間)拷問禁止法(余りにも非人道的な拷問は禁止された)


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