2019年11月5日火曜日

191106 天皇制の討論を聞いて

191106

天皇制の討論を聞いて

参照; チャンネル桜  115日、2019

政教分離; 現行憲法では政教の教が宗教を表すから、皇室は政治リーダーたりえない。その存在は日本国の創始以来の継続された存在であった故、伝統と継続の価値を代表する存在といえ、日本国というより人類的な象徴と言えるのだ。この点は敗戦後の勝者の代表としての米国も認めざるを得ず、国民の象徴と位置付けたと考えられる。

国民の象徴という場合は、政治とは分離しないと不都合が生ずるから、国民を政治的には代表しない存在としてあるべきと考える。理由は、民主の手段である選挙により選ばれるのが政治リーダーとなり、法治国家として条件になる。   憲法の9条の有無にかかわらず、国が自衛することが自然法として認められるなら、日本が外国からの攻撃を受ければ、総自殺願望でも持たねば、戦争になる。なりうる。                               (1)戦争への関与
ということは、戦争責任により皇室は断絶されうることになりうるから、戦争の可否の決断に関わることは、あってはならないことになる。すなわち、戦争の開始も停止・終結も行わない存在であるべきである。いや、正確には生存権・自衛権に基づく戦なら、始めることに関わらねば、戦争責任は負わないとすれば、戦争状態を継続するよりは、象徴としての自己ならびに国民の生命を守る方向であるなら,  停戦や終戦を働きかけることは、許されるといえよう。       (2)国民の象徴への処遇・対応
あるべき形が、時の変化の中で変化するが、現在のような情報時代には、メディア、アカデミズム、行政により微妙である。意図的に軽く扱う動きがあり、厳しい批判が行われている。          
すなわち、敬語を使わない若年のメディア関係者、行政官が大嘗祭の屋根は1千数百年にわたり、かやぶきであったが、2億円かかるからという意見で板葺きにしたという理由で、宮内庁長官、首相の責任を問う意見がある。
そこには、明らかな皇室の尊厳を貶めたいという意図があると、参加者のリーダー格の発言もあり、皇室が先の戦争に利用された可能性はありえたであろうが、宮内庁の行政官の単なる怠慢さ位いにしか私は感じなかったのだ。
(3)国民の総意を代表しないメディア
だが最近の卑近な例で、大洪水の被災地に慰問に行かれた天皇が避難所を訪問した際、『(天皇が)跪いて、声をかけた』と報道し「跪かれ、お話になった」ではなかった事には奇異に感じた。そして、これらの経験の浅いメディア社員ばかりか、TV局の夕刻の座談会の司会者が、隣国の行政の代表でもない行政関係者や議長には最大限の敬語で報道する。
あきらかに民意を代表しないし常識に外れるリーダーがいるメディア組織がある。それは商売優先の姿勢かも知れぬが、領海を侵犯し準敵国とみなされる国際社会の常識とは外れた判断が感じられるのだ。外国の政治的な利益を代表しないためと国の放送協会があるらしいが、憲法死守をいう左派の価値観には、自国の憲法に定める皇室は含まれておらぬことを認識させられる。(隣国のドラマを流し、視聴料を取りながら自社の番組のPRに時間を割くのは、ここで他社の商品広告を入れれば民法にできるはずという考えもある。)

自分の幹部を外部に紹介するのに敬語は使わないが、取引先の大手の指導者に対するお客様的な差別を、左派の指導者に感じた違和感である。領土紛争のある韓中露を準敵国ではない国益に反する扱いに感じる。明らかに憲法の条文は守るが、国民を守ろうという意志を感じられない”一部の野党議員”の影響があるのだろう。
いくら情報産業(TVテープ)の取引先のボスに対するなれあい感と言えば言い過ぎか。「お客様は神様だ」という扱いをする必要もあるまいにというより、世界の常識をしらず、国際的な王室へのエチケットとしての作法を持たない半島人と共有する無礼さを恥ずかしく感じたのだ。

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