2015年8月25日火曜日

15217 ローマから日本が見える(2)

15217
ローマから日本が見える(2)

ローマではいわゆる観光名所めぐりもお付き合いしたが、10代の人達はいわゆる名所旧跡めぐりで、それをスマホでとって見せたい。情報発信者である
歴史的な意味が感じられる場所のほうが魅力的なのは、今あるものも過去から引き継いで未来へと考える年寄りで、「現代を生きる」という若者のなかでは少数である。

とはいえ今更「ローマの休日」でもあるまいと、バチカンの宮殿の方を主張し、修復中だったのでもう1度みたかったシスティナ回廊は是非となり、チケットを行列で買わずにすむサービスを利用した。

完成していたミケランジェロの「最後の審判」の画像もすでにグーグルに載せられているものが右の絵で、空が明るく救われた。その他ラオコーンの彫刻なども画像でも陳列されている。
これは立体感あふれ圧巻で、そのいみでは大勢の旅行客のなかで実物をみたという感激は、わかい人たちと変わるところは余りない。最後の審判

暗黒時代の中世からルネッサンスが生まれたのもイタリー

バチカンを見ることを主張したわけは、なぜルネッサンスという復興が同じイタリーで生まれたかということである。
日本のような多神教だったローマ帝国の内部で、一神教のキリスト教になり、それが東西ローマ帝国へわかれた。そして暗黒時代になったといわれてきたのはなぜだろうかという疑問でもある。

ローマ帝国も1国での統治は難しく、精神界の統治者としてはキリスト教(バチカン;カソリック)がとって代わったのだが、布教者としての組織では、お布施を収入の10%くらい要求されながら、統治面では治安も十分でなく属州の地方の不満も大きく地域の王が統治し始める。
(10%献金はスイス人の経営者で友人から聞いた現代の話し。この人は事業が拡大し、いまはドイツに移った。)

精神面でも牧師でなく聖書による経典をもとめたルーテルが現れ清教徒が北欧で拡大するると、地中海沿岸のラテン国とは別な、多数の王国に変わってくる。その後は都市国家が自立し、民主化してゆくきっかけがルネッサンスであるが、なぜ多神教のギリシャ・ローマ帝国時代に戻らなかったのだろうか。

ルネッサンスと同様に重要だったのは政教分離ではなかったか

人々が経済活動の自由という繁栄を求めたが、神様はカソリックとピューリタンに分かれただけで、宗教界の教えの基本はほとんど変わらないでも教会が乱痴気騒ぎの場となる気配が12世紀から指摘があったという。これが理由で政教分離が始まったのではないかと歴史家下田淳氏の意見が重要ではないかと思う「ヨーロッパ文明の正体p42」。しかし、教会では都市国家間の紛争は止められず、統治は王政に戻り、そのあと民主制に変わる道を開いたとも見える。東西の貿易の自由と民主制の相性がよかったのであり、経済活動の自由が妨げられたからであろう。それにしても最近は自由経済と民主が行き過ぎで、金だけになりすぎていないか。

同時期の日本では欧州文明を珍重した織田信長も、銃には注目し採用し国産化もすすめたが、国土を統一した江戸時代には長崎をのぞき鎖国してしまったのも残念だ。鎖国のおかげで江戸の武家と町人の文化が開花し、今日の日本文化の重要部分になっているといわれる。
鎖国をしなければ、国が守れたかという国防と、文化の維持と分けて考えるべきかどうかも議論があるが。むりにローマから日本をみて何かを考えた、、

データはないので論理性をかく独断と偏見をお許し願えばだが、捕虜になるのを恥じる考えは民間からできたという説があるが、自決を強いた軍部の教育に繋がっているようにみえる。
国際法制度やジュネーブ条約(1864、1949年)の捕虜の処遇やらで日本は参加がおくれた。勝てなければ負けても仕方がないという考えがほしいが、言える状況でなかった。

そこが弱く人道面などでカミカゼ特攻隊につながり、多数の餓死者を出した貧弱な兵站など、制度により軍人を裁く部分が、いまだに学ぶところを残していないか
その点から、欧米は基本の部分がしっかりして強いのではないか。前項でのべたが、兵卒の立場では捕虜の扱いに公正な方に勝って欲しいという見方があっても仕方がないのだから。

フィレンツェ(フローレンス)のドームで死ぬ思いをした

バチカンのあとは、ルネッサンスの象徴でもあるフィレンツェに行かざるを得ないだろうと感じていた。そこでローマから列車でタスカニー地方の緩やかな傾斜地を移動した。

なぜフィレンツェなのかというと、西ローマ帝国が滅び暗黒時代が続いたが、14世紀ころにはメディチ家という富豪がパトロンになってミケランジェロ、ラファエロなどの才能ある美術・工芸家を育成し文芸復興たというのでルネッサンスが始まったと学んだから。

見た目にもそれまでの荘厳さばかりが強調された宗教画や肖像画よりは、目を見張らせるボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」など明るい風景画などで有名になったのが理由で、ヴェニスなども発展した。

地動説のガリレオもこの街だったが、ギリシャ時代にあそこまで発展した自然科学的な思考は、暗黒時代は途絶えてしまった訳ではなかったという説がつよい。コペルニクスやガレリオなどの地動説などの科学の世界だけでなく、ロマネスク、バロック、ゴシックなどの建築様式が生まれた。イタリーだけでなく、デンマーク、フランス、ドイツなど各所でその後も育っていたのも事実であるといわれる。

1453年に東ローマ帝国の首都コンスタンチノーブルが陥落した。これを機に多くの知識人がイタリーに移住して、イスラム圏の影響をうけた医学、哲学、文学などを移入させた。

いずれにせよ、この町のシンボルはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 (ドゥオーモ)で、そこにある街のシンボルの赤茶色の屋根の塔に登らねばということになる。

お年の方は足腰を鍛えた方でなければ450段以上の螺旋階段は要注意、慎重にされたほうが良いかもしれない。
情けないことだが、衰えたと痛感させられたのは、引き返すことの難しい暗闇をただひたすら登るだけのトンネル体験であった。

ただこの街の中心部を流れるアルノ川にかかるヴェッキオ橋からの夕日の風景はめったにない美しさで、感動するものだ。

どこへ行っても救われたのは、やせ我慢で若者のたべものと思っていたジェラート。いうアイスクリームとヨーグルトの混ぜ合わせたようなデザート。これは病み付きになる。
少しクリーミーになった最近の米国のアイスキャンデーよりうまい。真夏の暑さにはこのありがたさが身にしみ、生き返った。

タスカニー空港をつかう方には、ホリデーインの勧める地元のレストランが非常においしく、忘れられない。そう話したら、ベテランの欧州通から「欧州では全国チェーンではなく、絶対に地元の料理ですよ」と笑われたが。





0 件のコメント:

コメントを投稿