2015年3月30日月曜日
15193 あるがままに見ることの難しさと危険の防止
15193
あるがままに見ることの難しさと危険の防止(1)
表現の自由を守るとか真実をつたえるとかいうが、どの程度にそれが可能なのかはなはだ難しいと思う。文学で作家は創作するというが、「作家の仕事はウソを作ることです」などと平気でいわれると、人によっては不安に感じ、米人なら多くが不愉快な気分になるだろう。
好きか嫌いかでなく、何でもありの隣国との付き合いを見直さないと、世の中の良貨が悪貨にくちくされると書いたが、善悪を教えるだけでなく、その方法としての人間としての正直さを立て直すこと、ウソで害のあるものを禁じるのも立法府の政治家の役目だと強調したい(正直度測定方法)
。
表現する側の限界
① 人によるバラつき;
同じ会社を訪問して、そこに働く人々にあい、話を聞き、事務所や工場の中をみても、何をみてきたかにより、その記録は訪問者によって大きく変わる。入社して3ヶ月、業務日誌に訪問先の会社を、長くはもたないと書いて、上司に批判されたことがある。見せられた製品の斬新さを確信し、これから相当に売り上げが伸びる可能性があるというレポートにもなる。
日本の会社を日本人が見ても、見せられたモノに関する評価能力がどの程度か、という眼力や判断力による違いも大きいだろうし、どの位は脚色して書くことが許されるかにもよる。
② 正確に伝えることを要求される一般業務;
殆どの仕事では正確にモノを伝えるということは要求されたが、正直に仕事をしろといわれた記憶はない。不正直などという考えは入り込む余地はなかったと言える。しかし、その後様々な会社の色々な人にであい、世の中には要注意な人間がいることを知った。(実は学生時代に無料法律相談所でボランティアをして、金がからむといかに醜いかを知り、半世紀近く昔だが、法曹界には失望した時期がある。)
社会人になり1流会社では皆が正直だったが、約束された納入時期になっても入って来ないで、パニックになったり、特定な人のいうことは当てにならないというパーターンがあることも分かった。
良い会社ではここにウソや虚偽の記述があれば、誰の作成かは間違いなく分かるようになっている。『ミスでした。申し訳ありません』といって済まされるものは少ない。ほとんどの物やサービスの売買などの商行為には、何重にもチェック機能が介在し、ごまかしが効かない仕組みが出来上がっている。その意味では、政治の世界のいい加減さは、制度と運用にもあると思う。
20代の頃はだれもがそうだろうが、出来るつもりでやってみて出来ない試作や、ものの境界線にビジネスのチャンスがあるという経験はなかったが、その辺りに面白いことが多いという意識はあった。だがそれは、小説で言う創作の虚と実の境界かという事になると、虚を実として販売するのは詐欺であろうと考えるのだ。
③ 売るためにウソが許される事例と、許されない職種の識別;
ウソが創作として許される作家業と、それが認められない職種の違いはどう識別するか。
第3者の命にかかわる事例でのウソは許されるとして、平時の逆の軍事、ことに戦争自体に関するケースや、イスラム国の人質のケースなどは、虚偽のかく乱情報を相手がながす場合、こちらが手の内をあかすのは人命に係わるなら、自己防衛でのウソは許されるのだ。
平時のケースでは、どこで線引きするか。ニュース記事とオピニオン(意見)記事との表示を明記させて済むのかどうかである。作家が史実の体験記と称して虚偽の出版をしたら、詐欺だと訴えられるリスクだけで放置するか。それに対し大手のメディアが「売らんかな」と中身が虚偽でも支援した場合の防止策は出来ているのだろうか。
オピニオン記事には、事実確認のレベルが怪しいものかどうかは、それを監視し、評価グレードを付けるNPOを設けてはいかがであろうか。行政の問題かもしれないが、電力会社の汚染水の放水などは、当然ながら厳しい罰則があっても良いだろう。
④ 捕まるまでは許されるのか犯罪への寛容さと、弱いものへの労わりのなさ
腹腔手術では群馬の医大病院での患者の死亡者8名にも達したが、あきらかに監督責任ばかりか医師個人の「人命を救う職業」への不覚悟がとわれるケースにみえる。その医師の技術てきな熟練度をいうなら、認可制度をつくらぬなら、成功例の有無、成功比率などが検証されてしかるべきであろう。この医師が「良好な結果を得ている」という虚偽のPR説明の方も、無視できまい。
川崎での中学生の殺害に対し、自分の悪行よりは、それをグループ外にばらしたことに対する仕返しの方が優先できるという正当化の思考をもつ18歳。人命へのやってよいこと悪いことの判断ができていない家庭を含む自治体の育児。わかっても自己利益を優先させた医師の判断。
どうもここには似た思考があるように感じられる。それは『表に出なければ構わない。出した罰は受けろ』という裏社会の理屈である。
ジャーナリズムの危険性と予防策
ここ2年ほど調べて日韓関係がいかにゆがめられて来たか、その原因がどう考えても意図的なウソの記述に始まった少女の募集方法が強制であったという著作と、それがきちんと確認されずに尾ひれがついて拡大していった経緯があった。創作(捏造とよべる)をあたかも現地での体験であると偽った作者がいて、本のプロモーションのためかは知らぬが、体験がなかったのを補うかのように、韓国にでかけて土下座をして謝罪してみせる演技までしてみせたのだという。こんな迷惑な男は処刑の対象であるべきではあるまいと感じる。
さらにはそれを、事実として大々的にとりあげた新聞があり、国民にとって不幸なことにそれを国家間の賠償に発展させ、その意味では善意を通りこした、政治家を中心とするグループがあった。虚偽を認めた作家も日本人、それを報道したのも日本の新聞、形を変えた賠償にまで合意したのも日本人。それを信じて金(税)を払ったのも日本人。だまして金をとった人々(国)があったこと、それに国内で呼応した詐欺グループ(とよべるだろう)がいたことも、恐らくあったのだろう。
刑法上の犯罪とすべき事項
だが、いまさら『日本人は正しかった』といえるのかどうか。強制性を否定できても、『なぜここまで放っておいたのか』といわれ、集団としての日本人が責められたとき、悲しくなるほどの情けない気分にさせられる。
南京事件の2の舞ではないかと言われればそれまでだが、そういう広い視野でものを眺める頭脳集団を準備しなければ、また同じことが繰り返えされるだろう。
「表現の自由」にも限度があり、外国がからむときは個人の利益のために、自国の不名誉となる捏造は創作ではなく加害として、刑法上の犯罪としては如何か。歴史の反省はそこまですべきであろう。
バカバカしいと笑われるだろうが、売春行為にも支払い伝票が義務づけられ、サービス完了伝票が要求されれば、明らかな商い(あきない)が行われていたことになる。あとは拒否できれば無償の強制かどうかの議論もなかった筈である。貧しい親が借金をした形にして娘の役務契約を売るという部分にも法的な管理が行き届いていれば、強制のうむについての議論が省けたであろう。
それは半島で何が起こっているかの報道を制限した軍部にも明らかな責任はあったのだ。
今でも半島においても中国でも報道は監視・検閲され、法治を装うが、その運用は恣意的な適用であり、対外的な損得勘定だけで行われている。その被害者が産経新聞の支店長といえるだろうが、それに対し、いかなる対抗そちがとれるのか、とられたのか。
表現の自由と表現しない悪用と
人の思考を狂わせる煩悩は、貪,瞋、痴(ドン・ジン・チ=三毒)とよばれるが、現代の言葉になおして強欲・怒り・欺き (部分記事)と教わっている。ジャーナリズムやメディアも事業ととらえれば、多くの毒をまき散らす記事は、欲に因る加害行為だといえそうである。結局はそうした記事に腹を立てるだけの倫理観をどれだけの人がもつかで決まるのだろう。(辞書)
法廷での売春婦(慰安婦)の証言があり、強制ではなく借金と役務契約のいわゆる人身売買があったとしても、それを記事にしないジャーナリストがいて、歪められた記事になって日本中が信じこまされたとしたら、これはどう防止できたのであろうか。朝日の記事に対する他紙の沈黙はいかなる抑圧理由であったのだろうか。
それが事実でないと考える人達により、簡単に訴訟により記事の訂正や、罰金の支払い義務が生じるような防止策は可能であろう。報道ニュースも商品であるとすれば、消費者庁での判断に持ち込めるのか否か。要するに、ウソを書くと罰がくだり、痛みが発生するのであれば、メディアもジャーナリストも、もう少し真面目に中身を点検するだろうと考えるのだ。
書かない自由があるとすれば、それによって知る権利が侵害されているとみる消費者ができることは、ただの購読中止だけなのか。売れる記事でなければ書かないという商売上の自由と、報道責任とのバランスがくずれると、情報源をまもるなどという真実追求の保護も机上の空論になるおそれがある。政党ではなく、常に特定の会員を1万人なり、10万人抱えた集団がいて、地方紙のキャップに面会できるようにすると、警察署長も同様で、新聞を通じて政治を動かせるという青山氏(ジャーナリスト)の意見は貴重だと思う。
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