2020年6月10日水曜日

200604 東洋思想とディジタル技術+新実存主義の接近(2)

200604


東洋思想とディジタル技術+新実存主義が接近 (2)
100年ぶりにコロナウイルスという細菌のような存在で、世界中がこの半年の災厄を被り多数の死者も出ました。関東圏だけでなく国全体の社会の経済活動を人的に部分停止し、学校の児童教育まで停止し、ようやく首都も抜け出る兆しを得ました。
これで「やれやれ、全力で復旧の努力をしましょう」と台風のあとを元に戻すだけのようでは、何のための大災厄か。それで終わらせるわけには行かない。
40年代の戦争中で「空襲警報発令」で家の隣に父の指導で造られたシェルターに家族もご近所もみんなが隠れ、空襲をやり過ごした。終戦あとコッペパン+粉ミルクの学校給食を食べたことを思い出した。人生の終わりに自宅での蟄居・座敷牢扱いのような生活だ。自分たちの選んだ政府に要請され、同じく復旧をしましょうと素直に同意できないのです。
何が欠けていたかを考え、まず頭に浮かぶのは、自分たちでの信じるものを持たねばならないという事です。ガブリエルが言うように「人間と動物の違いは人は心・精神がある。」(私見を加えれば犬猫でないなら、3、4世代が健全な生活と安定をえる価値観と思想を持ちたい。)

最近欧州の哲学が東洋に近づいてきた
米国で40年以上も、欧米人とビジネス競争してこれたのは、小学生の時期にルーテル教会での日曜学校での聖書や讃美歌を習うなど、話題にできる程度の禅寺での早朝の座禅が役立ったと思います。ユダヤ人や欧州の文化が、東に近づいて来ている感がします。
だがG7の中で、基本的人権としての表現と信教の自由で、誰もが守られる点で、日米欧は中国とは全く違う筈です。それを嘘、だまし、捏造、賄賂、我欲と、物理的な脅しなどで操られるのは、非常に残念なことと苦痛を感じます。この辺の東洋の弱点を補強せねば、将来が安泰とはいえません。
東南アジアの上座仏教国でも、僧職の修業をしていない世俗人間が頑張り、地獄に落ちない道を拓いてくれた仏教を、守るべきだと思うからです。日本はそれに加え、武士道などを共有・訓練し説明できれば、これからの青年も胸をはって生きて行ける筈と思います。

仏教は優しく変化に柔軟な宗教
仏教はBC500年ころ釈迦が移動しながら各地で体験を交えた悟りを説かれ、インドの公用語の1つサンスクリット語で弟子たちによって経典になり、生涯に説いた日常語のパーリ語もくわえ数千の経典に残されたといわれます(注)。
(注;キリスト教の聖書も多数の指導者の話の寄せ集めた伝承です。)
粋は中村元先生「般若経典」が有名ですが、サンスクリット語の原文は日本だけで、チベットや中国には無いと読みました。中国は共産党の支配下では(1党の指揮下の国情)、宗教は許されないのです。
インドでは元のバラモンからヒンドウと仏教が分かれ、ヒンドウが7割、のちにイスラム教も加わり、それぞれの王朝が栄え衰弱した歴史があります。余り知られませんが、最近は日本から仏教布教所が欧米やインドにも出ております。将来の大国に伸びるとき、さらに日本人のインド文化貢献に役立ってほしいと思います。
日本でもアジアの哲学・思想として学ぶ人も多く、最近は多数の入門書も出ております。敗戦後のビジネスマンとしては、非常に頼もしく嬉しいことす。

これから1千年、2千年もたてば、同じ日本人でも食事、文化、交雑(混血)などで生活は変わり、人も言葉も変わります。米国では子育てのためにチャーチに通う移民家族もメキシカン始め多く存在しております。自分が信ずることがあり、それを述べることは信頼につながります。仏教やキリスト教を実践されると良いと思います。
最近の日本では、自由が強くそれに伴う責任感が弱すぎです。子供を産みっぱなしや、過保護、過剰しつけする親もおり、我欲の制御ができていないようです。 
米国では黒人の人種差別こそあれ、一寸極論を申せば虐待や貧困の子供をたらい回しにするNPOや、コロナ検査での行政の差別もミドルクラスでは余り聞きません。
私見を述べれば、仏教は優しすぎるので、神道・武士道・座禅も半年か1年くらい心身鍛錬に使うと良いかも知れません。外国人にも法治で差別(自己防衛)しないで済むには、罰則が要ります
「般若心経とは」
仏教全体での早わかりとして、外国にでて競争しながらも融和を願う日本人として、精神・心の在りようと行動をどう保つか。インドから中国語に翻訳したのは、インド人混血の鳩摩羅什(くまらじゅう)と玄奘三蔵ではすこし違うと云われます。
仏陀が大衆語のパーリー語で説かれた内容は、現在も使われるサンスクリット語で何千という経典に残された。その粋をAC200年ころか短くまとめたのが「般若心経」といわれます。仏壇やお寺の法事のさい、参座者で早口で読経(どっきょう)されるものです。
「般若心経」の色・声・香‣味・触・法の最後の法は意(識)を表しますが、インド流の習慣で前の5語のまとめだと教わりました。(私見では法は中枢神経系と思います。)
このまとめを除く5語の機能は、動物も部分的にせよ人より優れた識別でき、犬の嗅覚、線虫などは尿でガン患者が分かるといわれます。
そのまえに時の流れで表現が変わってくる例を、いま新実存主義(Neo-Existentialism)でポピュラーなM.ガブリエル(以下Mガ氏)の主張の一部を使ってみます。スペースが許せば、折に触れ考えをまとめた拙著「日本をマネジメントする」にも触れてみたいと思います。

新実在主義での精神はドイツ般若心経になるか
上述の実存主義、ことにすぐれた説明力を感じるマルクス・ガブリエル(以下Mガ氏)「新実存主義(Realism;略式名)」廣瀬寛訳をとりあげ、欧州の考えかたをしらべました。
Mガ氏はドイツ人(A.ケルンによればカント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェの流れをふむ)のようですが、「人間は他の動物たちとの違いは心を持つからだ」といいます。人間の範囲を、精一杯に広げるのはよいが、”心”を持つから人間だと定義できるか。うるさく言えば、心を持つ動物はいないか、人間でも心のない「人でなし」はいるはずだ。犬や猫など、ペットを大切にする人の多いのを見ると、ペットに”心”が無いと否定するのは無理を感じます。

Mガ氏は触れませんが、エチオピアの未開の地には、電気も文字も学校もない部落があると聞く。そういう”人”はどちらが適当か、言葉か心かで苦悩した結果かも知れない。 
(そのエチオピアの片田舎には、ビル・ゲーツ系基金「世界の子供にパソコンを」(OLPC)からのパソコン数百台の寄付を受け、学校のない地区で英語も何も知らず教えられず、小さなソーラーパネルとパソコンを、5日で使い始めた話は教育界でよく知られています。)      (参照;本ブログ13903「教育は教えすぎ」『その結果、子供たちはすぐに箱を開いていじり始め、5日後には1人平均で毎日47のアプリを使い、英語のABCの歌を唄い、2週目にはゲームで遊び始めた』と記録があるこの話で、NY州の貧困地域の「小学校5,6年生でまともに文字もかけない生徒がいる」と教育委員会はパニックになったそうです。ブログ番号年月を表示
人は神によって創られたというキリスト教徒は、人と動物の距離が近い(輪廻転生)アジア人に危険を感じるのか、人と動物のあいだに明確な区分壁を設けたい印象を受けます。
   
戦後に流行したサルトルなどの狭い定義でなく、心の有無を、ヒトと動物を区別する広義なモノにすると、反って新実存主義は漠とした曖昧なものになり、心脳関係などが掴めないと苦しいと心配です。これは次に述べる仏教の色即是空の“色”の領域とも似てきます。

自分の主張テリトリーを仲間に決めさせる位置づけ(カッコ内は編者)
(Mガ氏は優れた共著者の使い方だが、自分の営業テリトリーを人に決めさせ、評価をたのむ形はユニークである。機器販売の営業マンでテリトリー競争をされた人には興味深い方法に見えるが、民間ではやや談合にも似て、会社間の合意は難しいかと感じる。)
独語のGeistガイスト(精神)のほうが、英語のMindマインド(心)よりは自然や文化の浸透の度あいを上手くとらえているという。2言語の範囲の比較は、EUの中では珍しくないのだろうが、英語だけで精一杯のアジア人には難しい。半世紀まえの教養課程での英語教授の「エスプリ(仏)、ガイスト(独)、スピリッツ(英)の比較」授業を思い出す。

最初の分類;心の存在とディジタル技術
「➀ 全ての考えるものは存在する、② 私は今考えている、③ ゆえに私は存在する」という三段論法と言われたデカルトからの進化といえるか。Mガ氏は思いっきり欲張りな人のようで、「心のある・なしを動物と人間との仕切り」に使えるから、それが自分のテリトリーと言いたいようだ。(オヤ、文字を持つか否かではないのか。)
心の概念が意識の概念とどう違うか、いずれも、「心」や「意識」は、「思考」「認識」「意志」「感情」「情動」「自意識」「気づき」といった心を表す1群のはたらきの関連語とともに、大きな文脈・分類で導入される。(7種類も持ち出して、インドの意識・「」は遠慮したのか。)
技術のドイツ系の得意な分野だが、よく考えると、これは言葉による定義の中での技術ではないか。日本人は金型加工、絞り込み、中ぐりなど、加工技術・工具がとくいだが、モノである。例外としては、からくり人形などもあるが、産業にまでは至らなかった。

ディジタルは文字数とデータ入力のスピードが左右する
プログラミングは言葉では、プログラマーの多い英語になったが、72年創業のドイツのシステムソフトSAP社(米国ではIBM、マイクロソフト、アップルほか)があり現在も有力だ。日本もパソコンの製造はかなり進んだが、ソフト・アプリでだいぶ遅れたのは英語教育でのハンディだと思う。
今回のコロナウイルスでの医療データや、統計に基づく検査サービスでも同じだ。それは、官民ともにディジタル化の遅れである。今までは母国語の大切さとか、モノづくりの重要性とか、立ち遅れた理由を正当化してきた。だが、医療における遅れは、国民の命をあやめるとわかった。不況の回復の補助金の配布遅れは、ただ金を送るだけでも、決定の遅れと、経済の回復を遅らせるとハッキリ見えたのだ。
そして情報の報道、通信にも不可欠と気づき、本気に取り組む必要性が認識された日本は、これから急速に動くと期待したい。
日本語は外国人にもやさしい言葉だときくから、当用漢字を500~700くらいに絞れたら、記憶から思考へ、英語での定義ずけ、工程(アルゴリズム)、数学でスピードアップは加速するだろう。ブロックチェーン以外に独創が欲しい。

生きるという事は脳をつかうこと
要するにMガ氏の言いたいことは、心とは上記したほど広い意味の脳の活動に伴うものだから、それを行えれば人も存在することを実証できると言いたいのだ。
心は自然に生まれてきたら備わっているものではないということになる。
上述のように、文字も持たぬず、電気も学校もないエチオピアの寒村の子供が、初心者用にしても多国語のアプリを聞き、学んでしまえるのは、やはり人間の種族の1員に参加して生きる活動してこそ育つもの。それは意識しながら行動するものといえないかだ。
コロナウイルスでの自粛からの開放で、子供が一番喜ぶのは「友達と遊ぶこと」。
(そこには言葉が不可欠だ)と観察されている。(待てよ、SNSで存在する現在の人口マップも、人の偏在や存在を意味する)
精神とは人間的なものと、そうでないものとを区別する能力であるという。           生活、出産、就労、苦悩、健康、幸福、死などの実存的経験が材料となる。
美学、宗教、化学、哲学などの心には様々な精神の表出がある。仏教を説いた釈迦は、貧しかった2千5百~2千年まえ発達した頃の仏教では「生、老、病、死」と苦しみを表現しているが。

人間の条件の3要素を含む多数の心的要素
新実存主義は非物質的なものを認めない唯物論を否定する存在と位置付ける。だがそれは単に人間的なものとして選んだ”精神”をどう含めた世界なのだろうか。
(精神が存在しないとする唯物論者や共産主義者は、人でなしとでも言いたいのだろう。色々とこれから先への思考、想像がかき立てられると感じさせる本だと思う。)

心・精神が存在し、しかも自然種ではない(だから自分が存在する)といえるのは、専門用語と動名詞てきな言葉の優れた説明で、自転車とサイクリングの違いと同類だ。
サイクリングは自転車というモノを表すだけではなく、自転車はそれを動かしサイクリングする人のためにある道具だと(p96~100)。これは優れた説明だ。
単なる名詞でモノの名が言えるだけでは、心があるというには不十分である。その機能がありそれを表す動名詞まであれば満足な差別化だと。でも「自己欺瞞」がドイツ観念論の支流の「自己意識」の哲学だとするのは短絡で、考え方を認めても、存在論と新実在論の違いは、前者は考え違いを許さないというのだが。

人間は自らを決定する動物である事から逃れられない
精神とする理由は「知性」「悟性」「理性」をふくむからだという(p111)。
それは自己決定、自由の刑に処せられるというサルトルの支流にあることを認め、それでいながら自己による人間否定は、そういう人がいたとしても、それは誤解に基づいているにすぎないと言う。(動物的に自己定義したり、近代生活を否定する自殺も否定する。)
Gガ氏は、人は自由で移動も自由、政治形態の選択も自由、民主主義は悪を認識して正す手続きだとナチスを許したのを見ての唯一の選択肢だという。未だにナチスの出現をゆるした責任を感じて、考え続けているドイツ人がいる。(「欲望の民主主義」
日本人はモノを決められず、様子見や後出しジャンケンばかりしていると、政治家は勤まっても、”人間失格”と永遠の競争相手のドイツ人に言われるかもしれない。 個体としての身体は動物の一種と認めるが、人の理性的な生と自然主義が認める動物的な生とは対立する立場である(敗戦の重荷と責任感はドイツの方が強かったのか。)
 (筆者注;ここでGガ氏のいう心とは、後天的に脳で学べるが、その道具としては言葉と文字により表現できる特性がある。すなわち言葉と文字というツールにより、身体の一部である脳のみならず、体の外部にツールとしてあるコンピュータに、記憶させSNSなどで、アルゴリズムやソフトウエアで思考させる事により分身的働きも可能となる。
「あとがきに代えて」で、2016年のオックスフォード辞書が年を象徴する言葉として、「ポスト真実」をえらんだと述べ、言葉が現実と違う世界を作れると加えている最近は事実や実存ばかりか、ヴァーチュアル・仮想・虚構の世界も生まれ、AI=人工知能が、現実とは異なる世界をつくろうとしていると終えている
これを仏教の粋を集めたという、「涅槃心経」の比較して考えてみたい。
(続く) 




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