2020年7月4日土曜日

200707-1-(4) デジタル技術と「般若心経・東洋思想とディジタル技術」(200604続き)

200707-1-(4)(200604続き)

ディジタル技術と「般若心経」東洋思想(200604続き)

コロナウイルスが社会をとめて、考え始めた
長年のアメリカ暮らしからもどった祖国。そこは化粧をしているそうだが、どう見ても美女と間違えるワカモノや、中性てきな長髪のブロンドがさっそうと行きかう。お互いにバケあい、うたい踊り、社会のルールはゆるめられ、いったいドコと思う東京。
官邸のリーダ層は「自由な表現ができるのが民主主義」とご説明だが、
「地方自治が民主主義の基本です。」「自治体は自律の結果です」という社会になっているようにも見える。「自粛というのは、国の責任でなく、各人が自発的に休業していただく」「都としては国が明確にルールを決めて頂きます」と政索と費用は国税でとにげる。なるほど、先生方は「専門家」まかせで、ご自分は司会役に徹している。なぜ司会役かと言えば、権限を持つものとして、部下の責任者にそれぞれの職の範囲をあたえ、明確な指示を与え公表する部分が欠けている。ことに数値目標とフォローが欠けているから。
「貴方の自由。責任は国民」と、リーダ責任は消され出てこない。

これにストップをかけたのがコロナ・ウイルスです。
ウイルスの震源は「製造も戻す」という中国産から、一足おさきに菌の国産が始まった
都内ではクラスター=グループ「感染地は”夜の街”つまり新宿です」。
「そんな所で遊んでいないで、早く結婚を」と若者にいえば、
「それができるかは就職先によりますから、正規、定職かパート・非正規かで」。
自分にも昔はお世話になった「夜の街」で、急に声が小さくなる大人たち。
医者・看護婦だった祖父母が生きていたら、「末法の世だ」と言われたかも知れない世界です。

データがつくれない初歩の算数は忘れた社会、
若い方も年寄りも、ほとんどの日本人は本気で良い社会をと願い、まじめに生活している。コロナウイルスの自粛をまもり、何が欠けているのかと考えておられる。
さきに述べた通り、国会の先生方は攻撃はできるが、実行は経験不足で自治体任せ。自治体にも若い人はすくなく、ディジタル化は遅れ、データもないからマニュアルである。
結局はブレーンの中枢が全体と県別のデータが毎週見えないから、戦術もない。
仕事のおくれと空いたホテルの予約係のような仕事で、足りない病棟の隔離病室探しという時代遅れなしごとをやっている。
各県からの最低限でもこういう「OOのデータはオンラインで見える化せよ」という指示は出ていないようだ。2週間もたてば全米の地方別のデータが入手できた米国とは天地のさである。なぜかというと、2、3年での管理職の転勤と、その間の失敗だけをさける制度、
このデータ軽視が、全体のマスクなど衣料品の在庫を掌握していない現状を作っている。
いまや中学で学ぶ代数の微分・積分をわすれた人が多く、感染者グラフのy=ax²のU型グラフで高齢層とわかい議員のコミュニケーション・ギャップが感じられた。また全国の統計が無いのか、マスクなど医療品の製造データも輸出入もわからない。PCR検査機も欧州品を調べたら、ベスト設備は日本製で、国立機関にもあるというから驚いた。
感染者数の集計がおそい理由も、送金(実際の通貨を送るわけでない)に2週間どころか2か月かかるのも、マスコミと国会で与野党が騒ぐだけで、実行確認などやっていないという抽象論のやりとりだったとわかる。
教育・情報と国防;その間に、中国のけんえつを受けていない(だろう)産経新聞によると、中国は尖閣を1月ほど実効支配しつつあり、7月19日(日)紙で沖の鳥島も「あれは島嶼ではなく岩のつきでた岩礁だ」と言い始めていると第1面で報道された。商業とは切り離した情報・報道の自由(中韓の弱点)は汚染されぬよう、国内の関係省庁の防止が重要である。
ここで中韓からの「空港は外国人を全数検査するから安心だから増やせ」ということで観光客誘致に走り始めたらしい。国内品がどんどん中国産に置き換えられ、とうとう京都名産の柴漬けもメイド・イン・チャイナに変わっていた。今年は観光収入で北海道は釧路や小樽が買われ、さらに南方諸島が取られることが無いよう祈るばかりである。
先の政治リーダの責任は国民という全国的な風潮を変えるのはかんたんではないが、1言での結論は簡単です。国民が各人で自分の信じる道を努力し、「結果責任は自分がもつから、政治家や行政官はこうしてください」というだけです。更に大学と研究所を東京から分散し、東京の議員数を減らすことでしょう。

アジアの若者・子供も安心な場を提供する
アジアに限らず、留学生を地方に分散し、彼らにも夜間の日本語学校で半年くらい詰め込む。そのうえで、大きく2つのコースを教える。
1)IT;事務のディジタル化のための仕事のプログラマー、そのヘルパー。
ハッカー対策に有用なエンジニアは中露の技師では危ないので、その周辺でハッキングでいじめられている国からが良いでしょう。
2)インフラ分野での増員を養成する;日本に70万カ所ある橋梁を、10~20年で置き換える。そのための溶接工を養成する。半分はベトナム、インドなどに帰国して、母国の溶接工場から、組み立てられる構造物を輸入する。
全国で求められる、道府県の河川の治水(殊に河川流域から離れた)土砂崩れ防止、高台に移住する。インド・ベンガル地域ほか。
3)アジアの若者にも息抜きの場を;各社が自社への海外研修生を滞在させる施設を持っているが、週末や休日に息抜きできるスポーツ・センター、仏教の寺院、空いた校舎などを活用する。日本の工場経営者のなかで、給与、パワハラ、セクハラなどの問題も報告されており、きちんとした監督と指導のため、防衛庁、警察、教育系の定期指導も求められている。

なぜ仏教が注目されるか
困ったときの神頼みではありませんが、仏教の教えに戻ると、サンスクリットで書かれた「般若経典」の初期の紀元200~800年の長期に編サンされ、それはチベットや中央アジアから中国にわたる前のものです。ながい時をへた解説によると、仏道という決まった道があり、標識を見て歩けば実践だというほどシンプルではない。
実は50年前ですが、立川にある有名な宗派の創始者に、米国に発つ前にご挨拶に参りました。「いろいろな経典を勉強するのも良いが、まず実践ですよ。」とご指導をうけた。仏教という山に向かい歩いてゆけば、登れるほど簡単ではないようです。

仏道(仏の道)という山に登るゆるい道を作ってあげる 
 この道理を悟り、覚悟ができたところに、「空」の実践がある。
米国では求道者の覚悟もない商社の派遣社員であったに過ぎないが、貿易戦士という競争のなかに置かれたのです。歴史本でクリスチャンは16世紀に日本や中南米にも宣教師を派遣し凄いと知りました。40代始めに起業して後にできた布教所に参加してみて、家族はどうしているかが分かります。
日本にもできればよいがと思うのは、海外の布教所のように、子供たちを週末に連れて行かせ、神仏を拝む場がある。できれば安全な運動場がある。台湾、フィリピン、東欧ほかの親子たちとも交流すると、クリスチャンの教会とは違った和があると聞こえた。批判する気はまったくありませんが、アセアンの寺での修業が義務付けられた国ほどではないが。仏教の関係書はアセアン(東南アジア)の上座部仏教僧の書などでは厳しく実践は難しい。
求道者は落胆せず、恐れず、失望せず、驚愕せず、知恵の完成を目指せばよい。
何かを獲りに行くのではなく、心は得るものではなく、心は心でないという。
それは、モノの有無をいうのではなく、決められた規則やルールに従うのでもない。
甲冑に身を固めているというのでもない。
般若心経を選ぶ理由
徳を持っている人もいるのかもしれないが、量ることは出来ない。大乗という乗り物は
渡し船のようなもので、人が渡れたら、持って歩く必要はないという。        
その過程を省略しようと産業面で進んでいたのか、大乗の流派が「仏説魔訶般若波羅蜜多心経」にまとめ上げ、六波羅蜜(「布施」「自戒」「忍辱」「精進」「禅定」「知恵」)という実践にまとめた。それが「般若心経」の中に略され纏められた。
人の逃れられない運命(生老病死)の中で、人の世の持つ災難・災いのなかで、この道理を悟り、覚悟をもつところに、「空」の実践がある(と言われます)
求道者は落胆せず、恐れず、失望せず、驚愕せず、知恵の完成を目指せばよい。何かを獲りに行くのではなく、心は得るものではなく、心は心ではないというのは、モノの有無をいうのではなく、決められた規則やルールの従うのでもない。
大乗という乗り物は渡し船のようなもので、人が渡れたら、持って歩く必要はない。
宗教の重要さは、その神仏の証明やぎろんではなく、家庭を和をもって運営し、適度に勤勉で真面目な子孫を育成するのに助かるという点にあると私は考えます。

空(クウ)とは何か
「色(ルーパ・Rūpa;注)即是空」を訳して「色=シキすなわち空である」としても、原語のルーパが物質、素材だと分からないと、漢字の”色”という文字が邪魔になり経典の意味は分からない。元のパーリ語、サンスクリット語から、チベット語、中国(南部)語、日本語、4~5原語それぞれ間に翻訳者が入っている。事例で説かれた数千巻の中枢を純化されたものが、「般若心経ハンニャシンギョウ」に目標を絞ることにした理由です。
(座禅も流行っていますが、米人には有名な鈴木大拙師はシカゴ市に1897~1908年に滞在し、後に禅を自著でも世界に広めた由。ご縁もあり70~80年代はシカゴのインテリに「お前はダイセツを知っているか?」と聞かれ、知らずあたふたした覚えがあります。)
(注;In Buddhism and Hinduism, rūpa (Sanskrit; Pāli; Devanagari: रूप; Thai: รูป) means 'form'. While it may be used to express matter or material phenomena, especially that linked to the power of vision in samkhya,(翻訳プロセス・出典は、量も多く拙文の趣旨と外れますので省略します) 
般若心経の解釈として、いま欧州で知られるMガブリエルの実存主義(Realism)でのバーチュアルな映像、仮想コインなどとも矛盾しないように思えます。   

空の境地はモノに喩えると山だといいます;
山を登り、ようやく山頂に届くと、そこは山はなく、広々とした空間だけである。
遠くから見れば山があるが、その頂上には何もなく、足元には土がある。空ともいえる
世の中で計れるモノは形を変える。願うモノはかなえば消える。
不足が起きれば生じる。
蒸気も冷えれば水となり、さらには氷となる。
漢字で訳された全文はネットで調べて頂きます;(舎利子とはリーダ弟子の1人)。
https://www.e-sogi.com/guide/14635/)(フォント・着色;編者)
『仏説魔訶般若浪羅観密多心経
自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄(舎利子)
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色受想行識、亦復如是 (舎利子) 
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故、空中無色、無受想行識
眼耳鼻舌身意、無色声香味触無眼界、乃至、無意識界、
無無明、亦、無無明尽、乃至、無老死尽、無苦集滅道、無智、
亦、無得以、無所得、故、菩提薩埵、依、般若波羅蜜多
故、心無圭礙(けいげ)、無圭礙
故、無有恐怖、遠離一切顛倒、無想究尭、涅槃三世諸仏、
依、般若波羅密多、故得、阿耨多羅三藐三菩提
故知、般若波羅蜜多是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、
能除一切苦、真実不虚、故説、般若波羅蜜多、呪即説呪曰
羯諦、羯諦,波羅羯諦、波羅僧羯諦、
菩提薩婆柯、般若心経』(以上262文字です)。
これらの機能を表にしてみたものを、後述しました。

2千年前の経典の時代の人の知覚分析は、現代の中枢神経の分類とほぼ同じ
仏教の教祖おシャカ様は、人の脳や中枢神経のはたらきを知っておられたと感じます。 「般若心経」の心・(知覚)・知識は「色・声・香‣味・触・法」に纏められている。
体の感覚の中枢神経の働きと、現代ドイツの哲学者Mガブリエルのいう『「心」や「意識」は、「思考」「認識」「意志」「感情」「情動」「自意識」「気づき」』とによって、ほぼ重複し網羅されている。
 ヒトは熱い、冷たい、痛い等を体で感じ、目や耳を使って物を見たり、音を聴きます。感覚とは外からの刺激を体の特定の器官が感じとり(感覚受容器)、認識する。感覚は大きく分類すると下記のように分類されます。中枢神経は(日本のウイキペディア)
(1)体性感覚(2)内蔵感覚: 臓器感覚(吐き気など)、内臓痛が含まれ 
(3)特殊感覚: 視覚(目で見る)、聴覚(耳で聞く)、味覚、嗅覚、前庭感覚(平衡感覚)が含まれ(略)大脳皮質は表層から数えてIからVIの6層からなっています。

空(くう)とは体験ととらえよう;禅寺に泊まって修行するとよい
余り神経質な方でなければ、小学生でも5、6年なら1人で禅寺に預けられても1週間余なら、質素な生活の体験を得たいと考える方には有意義でしょう。孤独感だけで厳しい扱いを受けたとは感じないでしょう。むしろ現代はスマホとテレビなしの生活の意味の方が大きいでしょう。コロナウイルスでの非3蜜な1日がいかに長いかわかり、少々の事変には驚かなくなくなります。
「仏教徒とは何か」について、後に興味を持つことになったと思います。
「般若心経」では、米国での長い生活でも、ポジティブに受け止めてきました。ある時、色即是空、空即是色の”空”が、無(ム)でなく、エアーでなく、アキ=カラ=ソラという捉え方をしたとき、急に肩が楽に感じました。
無、空、不にからむ文の経文は、仏の六波羅蜜の修業か、あるいは諫めの言葉などが述べられています。
色の意味には個体、設備などの物体ばかりか、ソフトウエアーも含むシステム=構成・機構図も含めることができます。これを面で捉えると時間x(t)をも含めると、人の人生そのものを3Dに表せるバーチュアルなモノも含むでしょう。
四諦(タイ)、五蘊(ウン)、六波羅蜜多、六識、六境、八正道、など教えや、顛倒(テンドウ)罜礙(ケゲ)などの苦しみの例があります。
空とはそれらから離れた、残された空間と私は受け止めました。
この空間は、貴方が好きな分野を選び、学び、気に入れば更に体験します。それが一生の活動の場にできると言えるでしょう
翻訳される前の”色”(モノRupa)はブツ・素材というインドの意味・仕分けというが、より自然に感じることができます。
これが般若心経の解釈として、またMガブリエルの実存主義に含めようとしているバーチュアルな映像、仮想コインなどとも矛盾しないように思えます。

自分に与えられた空間を力一杯に体験し生きる
空を虚しいと感じるか、広い空のように感じるか、景色の一部とかんじるか、自分自身のために両親が開けてくれた空間と感じるか。翻訳語の文字の似た音か、意訳かによるが、誤解を生み邪魔をしてるとも言えましょう。
鈴木大拙師は、「空とはシェーニヤターで、いわば全世界を包み、同時にそれはまた、世界に存在する一つ一つの事物の中にある。(略)”シェーニヤターは体験すべきものであって、観念化すべきものではない」という。(注;)
周囲の人たちがそこを塞いでしまわぬように、自分のモノだとするには、自己主張の声を上げねばなりません。(「禅」鈴木大拙、工藤澄子訳p169)

そうした混沌の中で、個人はどう自分を賢く成長させるかです。
➀ 自分は何をするために生まれたか、
② 何をしたいか。
③ それを見つけるには、何があるかを学び、観察し、選択して、
④ そこに精神をこめて集中する。
⑤ そこに頑張って空の中にそれを描き力一杯生きることだと言えます。
個々に努力をして、大きなことができなくても失望する必要はない。生きるものはいずれ死ぬ。だが将来への夢を持ち子や孫、次世代に期待することはできる親はそういう空間を残し勇気を与えてあげるしかできない。仏教の教えはそういうモノと私は今のところ、信じております。

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