2020年7月31日金曜日

200731  寄稿「私の背骨」下村和義氏


私の背骨  (寄稿) 
 下村和義さん(ノースウエスタン大学博士)


 私は幼少期、テレビとはほぼ無縁の生活をしていた。それはテレビが嫌いだったからではなく、両親が意図的にテレビが映らないように操作していたからだ。テレビアンテナのワイヤーを意図的に切っていたのだ。だから、見られるチャンネル数は非常に限られていた。NHKとローカル局のみ。「うちは山の中だからテレビが映らない」と両親は私と兄を約20年近く騙し続けた。まったく疑いを持たなかった。騙す方も騙す方だが騙される方も騙される方だ。

 そういうわけで、幼少時代の私は外で遊ぶ時間が大変多かった。山の中を一人で歩き回ったり川に魚を捕まえに行ったりして、1日の大半を外で過ごしていた。だから、虫に刺されたり、転んで膝を擦りむいたりなどの怪我は日常茶飯事。そんな時、祖母は私が虫に刺されると鉢植えのアロエを持ってきて、その汁を傷口に塗ってくれた。転んで血が出ると、田んぼの畦道からヨモギを持ってきて、それをすりつぶして塗ってくれた。当時の私は「そんなもんで治るわけない!そんなもんで治るのならツバでも治る!!」なんてひどい言葉を祖母に浴びせていた。しかし、内心密かに自然って不思議だな、昔の人の知恵はすごいな、などと思っていた。今になって思えば、そういった環境が今の私の背骨となっており、自然に対する探究心は子供時代の体験を通して少しずつ育まれていったのだと思う。

 私の生まれ育った町は静かな山間部の農村地帯だ。そこには幼少時代、私が町を出た時とずっと変わらない田園風景が今もなお変わらずにある。季節の変化がない常夏の国ならまだしも、劇的な四季の変化が存在しているのに何も変わらない。そこには微生物も植物も動物もいて、常に世代交代が繰り返されているのにだ。そのような変化の中で、彼らの力関係は見事に平衡状態を保っている。私はこれをとても不思議で神秘的だと思う。まさに、鴨長明の方丈記の冒頭文「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の世界。
この話を私の幼馴染にしたところ、「ただの田んぼと山だ」と大笑いされたが。おそらく私がそんな風に感じるのは、大学時代を人工的に作られた権化のような町、東京で過ごしたからだろう。ずっと田舎に住んでいて、他の場所と比較することがなかったら、きっと気づかなかったはずだ。この両極端の環境を行き来することで、自分の生まれた環境が私にとって不思議の宝庫であることに徐々に気づいていったのだ。

 さて、アロエやヨモギのように植物から作られた薬というのは数多くある。中でも有名なのがアスピリンだ。代表的なものにバファリンがあり、これは解熱剤、頭痛薬として世界に広く普及している。この物質はヤナギの葉に由来する。ヤナギの鎮痛作用は紀元前のギリシャ時代から知られていた。原因となる物質が分離されたのは19世紀、それが改良され副作用がない形になったのが1897年だ。しかし、その詳しい作用機序(どうして効果があるか)がわかったのは、なんとそれから70年以上経ってからである。

 「薬」という字には草冠がついている。昔から人間は植物に薬効成分があることに気づいていた。おそらく誰もが原因物質を見つけたいと思っていただろう。ただ、「自然界ではどうなっているのか」が常に科学に対する考え方のベースになっている私は、少し違った観点でそこに美を感じ、その魅力に引き込まれる。そもそもなぜヤナギはアスピリンを作っているのか。きっと作るということはヤナギ自身がアスピリンを利用しているにちがいない。それではいったいどう利用しているのか。私の探究心はどんどんかき立てられ、その不思議を解明せずにはいられなくなる。もはやこれは職業病だ。

 現在、私たちも植物由来の治療薬の開発に取り組んでいる。昔は詳しい作用機序がわからなくても、効能と安全性がわかれば薬になっていたが、今は作用機序の解明が必要不可欠だ。作用機序が実証されれば、新たな扉を開くことができる。しかし、私の真の興味はそこだけにとどまらない。アスピリンのように、植物は人間にとっての薬効成分を体内で合成しているのは間違いない。そして、その物質はその植物にとっても何か意味があるのかもしれない。そこが解明されることで私が描いていた「自然界ではどうなっているのか」というストーリーが一つ完結するのだと思う。

 ただ、気をつけないといけないと思うこともある。私は美味しい料理に出会っても、中に何が入っているか、どのように調理されているのかと想像して、しばしば箸が止まってしまうことがある。すると、そこに居合わせた娘たちは顔を見合わせ、決まって「また始まった」と言わんばかりの顔をする。「美味しいんだからそれでいいじゃない。まずいのなら文句を言ってもいいけど。」困ったものだ。この思考回路、変えるのは非常に難しい。しかし、娘たちの言い分ももっともだ。自分の考えていることを伝える時は場の空気を読む必要がある。それは時に自分の頭の中だけに留めておかないといけない。そんなことを娘たちは暗に私に教えてくれているのだろう。
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 私は幼少期、テレビとはほぼ無縁の生活をしていた。それはテレビが嫌いだったからではなく、両親が意図的にテレビが映らないように操作していたからだ。テレビアンテナのワイヤーを意図的に切っていたのだ。だから、見られるチャンネル数は非常に限られていた。NHKとローカル局のみ。「うちは山の中だからテレビが映らない」と両親は私と兄を約20年近く騙し続けた。まったく疑いを持たなかった。騙す方も騙す方だが騙される方も騙される方だ。

 そういうわけで、幼少時代の私は外で遊ぶ時間が大変多かった。山の中を一人で歩き回ったり川に魚を捕まえに行ったりして、1日の大半を外で過ごしていた。だから、虫に刺されたり、転んで膝を擦りむいたりなどの怪我は日常茶飯事。そんな時、祖母は私が虫に刺されると鉢植えのアロエを持ってきて、その汁を傷口に塗ってくれた。転んで血が出ると、田んぼの畦道からヨモギを持ってきて、それをすりつぶして塗ってくれた。当時の私は「そんなもんで治るわけない!そんなもんで治るのならツバでも治る!!」なんてひどい言葉を祖母に浴びせていた。しかし、内心密かに自然って不思議だな、昔の人の知恵はすごいな、などと思っていた。今になって思えば、そういった環境が今の私の背骨となっており、自然に対する探究心は子供時代の体験を通して少しずつ育まれていったのだと思う。

 私の生まれ育った町は静かな山間部の農村地帯だ。そこには幼少時代、私が町を出た時とずっと変わらない田園風景が今もなお変わらずにある。季節の変化がない常夏の国ならまだしも、劇的な四季の変化が存在しているのに何も変わらない。そこには微生物も植物も動物もいて、常に世代交代が繰り返されているのにだ。そのような変化の中で、彼らの力関係は見事に平衡状態を保っている。私はこれをとても不思議で神秘的だと思う。まさに、鴨長明の方丈記の冒頭文「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の世界。この話を私の幼馴染にしたところ、「ただの田んぼと山だ」と大笑いされたが。おそらく私がそんな風に感じるのは、大学時代を人工的に作られた権化のような町、東京で過ごしたからだろう。ずっと田舎に住んでいて、他の場所と比較することがなかったら、きっと気づかなかったはずだ。この両極端の環境を行き来することで、自分の生まれた環境が私にとって不思議の宝庫であることに徐々に気づいていったのだ。

 さて、アロエやヨモギのように植物から作られた薬というのは数多くある。中でも有名なのがアスピリンだ。代表的なものにバファリンがあり、これは解熱剤、頭痛薬として世界に広く普及している。この物質はヤナギの葉に由来する。ヤナギの鎮痛作用は紀元前のギリシャ時代から知られていた。原因となる物質が分離されたのは19世紀、それが改良され副作用がない形になったのが1897年だ。しかし、その詳しい作用機序(どうして効果があるか)がわかったのは、なんとそれから70年以上経ってからである。

 「薬」という字には草冠がついている。昔から人間は植物に薬効成分があることに気づいていた。おそらく誰もが原因物質を見つけたいと思っていただろう。ただ、「自然界ではどうなっているのか」が常に科学に対する考え方のベースになっている私は、少し違った観点でそこに美を感じ、その魅力に引き込まれる。そもそもなぜヤナギはアスピリンを作っているのか。きっと作るということはヤナギ自身がアスピリンを利用しているにちがいない。それではいったいどう利用しているのか。私の探究心はどんどんかき立てられ、その不思議を解明せずにはいられなくなる。もはやこれは職業病だ。

 現在、私たちも植物由来の治療薬の開発に取り組んでいる。昔は詳しい作用機序がわからなくても、効能と安全性がわかれば薬になっていたが、今は作用機序の解明が必要不可欠だ。作用機序が実証されれば、新たな扉を開くことができる。しかし、私の真の興味はそこだけにとどまらない。アスピリンのように、植物は人間にとっての薬効成分を体内で合成しているのは間違いない。そして、その物質はその植物にとっても何か意味があるのかもしれない。そこが解明されることで私が描いていた「自然界ではどうなっているのか」というストーリーが一つ完結するのだと思う。

 ただ、気をつけないといけないと思うこともある。私は美味しい料理に出会っても、中に何が入っているか、どのように調理されているのかと想像して、しばしば箸が止まってしまうことがある。すると、そこに居合わせた娘たちは顔を見合わせ、決まって「また始まった」と言わんばかりの顔をする。「美味しいんだからそれでいいじゃない。まずいのなら文句を言ってもいいけど。」困ったものだ。この思考回路、変えるのは非常に難しい。しかし、娘たちの言い分ももっともだ。自分の考えていることを伝える時は場の空気を読む必要がある。それは時に自分の頭の中だけに留めておかないといけない。そんなことを娘たちは暗に私に教えてくれているのだろう。
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