2015年10月3日土曜日

15222-1 コミュニケーションというが

15222-1

コミュニケーションというが(1)
(なぜ思い通りの意思が伝わらないのか)

さいきん理論だけでは説明できないということなのか、心や脳にかんする著書がふえている。その1冊で『人の心は読めるか?』(ニコラス・エプリー・波多野理彩子訳)にふれたい。

1.自分の心と人の心の違い
人が希望する超能力は① あいての気持ちを読みとる能力と② タイムトラベル能力だという。
②は誰もがもっている訳ではないから、結局は選択の問題ではないが、①の人の気持ちの読みについては、ある程度はだれもがもっているし経験している。
  
では本心かウソかを見抜けるかといえば、見抜く能力は54%対50%で、コインの裏表を当てるのよりは少しましだという程度だという。

2.自分の心は分かっているか
これも難しい。自分は他人にたいし300Vの電気ショックを与えられる人間だと思っている人は
殆どいないが、実際には平気で多くの人がショックを与えたという。
卒論を書きおえる期間はときかれ27日から34日のあいだの日にちで答えたにもかかわらず、平均で55日もかかったというから、人は自分のことが分かっているとは言えないし、能力への自信も失うだろうという。
自分のことが1番わかっていないとすれば、どうして人のことがわかると云えるか。

3.脳の90%を使っていないという
よく言われることばだが、習慣的にやっていることは無意識でおこなうことだが、これと意識的な
ことにも、あまり関係はなさそうだという。
また見ていることと脳の働きには関係があるが、ありのままを見ている訳ではなく、網膜にとど 
いた光の波を読みとる前頭葉や視覚野の残りの部分など、脳の大部分は加わっていないらしい。うわの空というのかもしれない。
脳は左右対称なものを認識するのにたけていて、魅力的と思うのも瞬時につくられ、意識にも上らない。(脳のかかわりのない部分にある心というのは心臓部にあると思っていたが、どうもそれは怪しそうだ)

4.第6感などというものは働かせたときしか機能しない

自分には関係ないと考えていることには、第6感は働かない。つまり相手との距離がだいじだ。

単身赴任、大企業、別居などで、遠すぎると心は通わないし、無関心になり痛みも感じない。
つまり、一緒にいるなかまで、同じものを見たり会話をすると、話し方も似てくるし相手とシンクロすると分かっている。(去るものは日々に疎しということか)
視線と体が1体化すると心も1体化する。関心の共有、行動の模倣、感情の一致などがそれだ。人ごみの中で隣の人が倒れても気づかないのは、べつに薄情ということではなく、自分の注意が買い物に向いているからで、直視して何が起きているかに、脳が連動した時だけらしい。

だから『人の立場になって考えろ』とよく言うが、相手が置かれた状況や環境がよく分かっていないで、写真などから占っても当たらない。読心術が有効だという証拠もまだない。
言葉で伝えるにも、余程はっきり云わないと伝わらないのだ。(では以心伝心とは何だろう)
心というものはそれだけが存在するわけでなく、どうも脳の1部だということのようだ。

そこに1緒にいる意味を失うものはスマホ。それはコミュニケーションに関してのべるが、仕事上のコミュニケーションにも関係している。  
夫婦でも、自分の考えを包み隠さず話し、相手の言い分を自分が正しく分かっていると確認できて、初めてお互いが理解できるという
  • 誤解、意味の違うことを話し合っている
  • 自分の心や意思がわからない人々
  • 分かり合える訳はないのか
政治家が宿敵には会わないようにしているのは、会えば必ずその人が好きになるからだという。
骨身を惜しまず、あって言葉を交わすことが、心を通わすことであるなら、言葉と心の誤解を消すには、会えばよいのだが、それほど単純でもないようだ。
私の経験を交えながらもう少し考えてみたい。

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