2017年4月10日月曜日

17010 40年近くまえの辞めた会社への提言書がでてきて今の日本はどう変わったか考えた

17010
40年近くまえの辞めた会社への提言書がでてきて
今の日本はどう変わったか考えた(1)
経済で1流国をめざす日本人のハンディ

自由なはずの米国でも、ある区域ではお屋敷つづきの場所もあり、外と違った社会があるが、ちょっと侍やお百姓の格好ではつらい。雰囲気がよいので、そういうところに入ったこともありますが、窮屈に感じて数年で出ました。
誇るべき国、懐かしむ古里には、友人がいるのは嬉しいが、歯どめのない自由で我侭という今の日本にも、これで良いのかと感じます。未来を造るには、さすが日本人だという心、金儲けだけでなく1目をおかれる精神力や気概をもった若者が欲しい。外国人が住みたくなる社会です。それがあれば、国に言われなくても、命をかけても守るに値する故郷になるでしょうから。

アメリカの制度は1流だった

最近墓をまもる長男としてのつとめもあり、日本に戻る決意をし、書類を整理していたら40年ちかく前の辞める会社への提言書が出てきました。退職に当たりNYのトップから、「どうしても辞めるのか。なにか意見(遺言)を残していけないか」と言われ、大変なご馳走を受けたことでもあり、書き残した手書きをタイプしたが「国際化の条件」で、その法的なその骨子は下記です。

シカゴに着き最初にひまな時間に学んだのは米国の商法の基本の考えと、日本との違いである。    
それは無謀と云われるでしょうが、大雑把にいえば3点である。何かで米国の大会社と議論が生じたら、これらは役立つはずで、勉強しておかれるとよい。提言書そのものは後述します。

1)アンタイ・トラスト法;独占禁止法;
市場に1つしかない供給者であることで、好きな価格で販売し拡大して、買い手・利用者が選択の余地のない状態は弊害と考えた。つまり競争の原理を重要視していたのだ。それが目に余るような規模の弊害をもつ会社は分割するのである。(パテントは例外) 
国有企業は原則として認めないのだが、特許や薬事法による許可された薬などは例外である。マイクロソフトさえ分割の検討はされたはず。最近はネット販売でアマゾンやアリババなどが躍進し、分割が難しくなりましたが、1社で何拾兆円などという会社は、分割して別経営にさせるべきです。なぜなら仕入先のメーカーや供給会社を購買力で支配することにより、フェアな競争が妨げられるからです。中国のメーカーと競争できなくなったのは、巨大量産による労賃の差だけ、これはフェアではない。単に13億にも増殖しただけ、しかも工場も造ってやったのだから。
 2)アンタイ・フェアトレード法; 
大企業はその力で自己に有利な条件で、中小企業に条件を押し付けてはならない。合理的な理由なく、相手によって差別してはならない。つまりは数量値引きと運賃差だけが認められる。ただし小売は自由。人種差別はできない。(社会主義や共産主義の国は、にて非なるもので計画経済であるからで、生産者の決めた価格で売るということ)。日本にも3公社5電業などがあったが、少し言いすぎかもしれないが、経営者はまともな経営や問題解決の力や経験を得ないで昇進できてしまうように見える。民営化が遅れたのだ。
東芝や東電が注目されるが、大きすぎるのだ。それが一般の目に晒されるのは非常時で、その防災訓練も行われていないと分かったのだ。国民を守るはずの憲法をどうするか左派の人は何と答えるのかである

3)米国で自国の事業をおこなう事(Doing Business in USA);  
「ローマに入ったらローマ人のやるように行え」(Do as Romans do)が根本にある。
 逆に言えば、母国の法律や習慣で米国で事業をするなということ。 国内で商行為を行うものは、米国法の管轄化では米法に従う。当たり前だ、、。  だが待てよ、、
               
国際テレビ会議で、商行為の判断や決定を海外の親会社が行っている場合は、その親会社も米国内(州内)で商行為をおこなっているとみなされ、日本法人の所得税などが課税されるというもの。米国内でもイリノイ州で契約するか、ネバダ州かで変わる。 

これも外国の国有企業などは要注意であるべきで、株式会社は損害のあった場合、株式の上限までは株主が責任を持ちましょうということだ。上記の3ルールは米国が世界のリーダとなる画期的な基本で、アジア諸国は逆立ちしても、創設できなかったと感じる。むろん、中庸などというはっきりしない歯止めはあるが、法としての強制ではない。
これらの例外は外交官だけで、国家公務員は含まれないはずだと思う。 

最近は私欲が公認されてきて、これらの解釈が緩んでいるといわれ、諸悪がはびこり始めたような気がするが、 Fair Trade(公平)はもう1つの条件 equitable(衡平・公正) であらねばならないとあったはずだ。つまり物を売りつけておしまいではなく、バランスがとれて均衡であることが求められる。極論すれば売っただけ買えということになり、共産圏の小国でドルの手持ちが少ない国では、工作機を買うから、ジャムを同額買ってくれという要求などがあったものだ。それをやっていたから、総合商社は国にとって存在機能を果たしていた1面もあったが、最近は変わった。

トランプさんが45%の輸入課徴金というのは根拠がないわけでなく、国際貿易はフェア&エクイタブルの精神がなければ長続きする関係はできないからである。これは商務省の入り口に彫りこまれていたのを見たが、アメリカの資本主義と精神として、日本人も学ぶに値すると考えている。それを信奉して生きてきたことに嘘はないことを示したい。  長くなるから続きで加えたい。     
道徳、精神力、宗教の(わから)ない人のハンディ   
つい最近、ネットサービスも担当するマネジャーが、 セキュリティー過剰と感じている私に、ペイパルの口座を開設してくれ、ネットで料金を払えるサービスができる様になったと報告があった。ペイパルを好んで使う人は、自分の Visaカード番号がネットにリークするリスクを1段階へらすことができるのだという新知識もさずけてくれた。ネットの便利さは理解しているものの、便利さを悪用するハッカーや詐欺・窃盗の手口もハイテック化してゆきます。    

それは80年代の後半からの気がしますが、日本はG7のメンバーになれたが、根本のナゼ窃盗はいけないのか、先祖や親を敬えとか人間の基本を教えない人を量産している。そのためかもの造りではトップクラスでありながら、意外と尊敬されなくなったと感じます。米国の中西部では日本よりはるかに親を大事にして生活しています。教育でそこを補い個々に誇りをもてれば、元気づけられまた1流に上昇できると考えるのです。形をかえて英国や他の国も試みています。要するに人は銭カネの奴隷であってはいけないのです。
     
個人としての自信の背景

自由は得たが価値観がなく、どうでもよい人は2流・3流扱いされる。
2年ばかりまえから日本のテレビがシカゴで見えるようになり、日本の社会勉強をした過程で、みこしの走る通路は、消防の火災のときの逃げる順路を住民に教えているのだと教えられた。 
訳あって禅寺に行かされたが高校まで沼津に育ち、東京に出て29歳で米国に赴任するまで、この種のことを教わった覚えがないし、他にも米国にすめば嫌でも気づくルールが無かったことが多数あると気づかされる。          

つい最近ユーチューブの報道で、日本人と結婚したインド女性のインタビューの話。
その女性が結婚する前に、「宗教は何教を信じるのか」と聞いたところ、婚約者は「先祖は仏教で祀られているが、あなたに合わせるよ」といわれ驚き、家族と一緒に喜んで結婚したという。
だが、別に自分への愛情が深くて改宗してくれた訳でもなかったと、半分がっかり、半分は宗教心の深みのない人だったと気づいたという。インドでは、家族のしきたりや流儀があり、それをマスターすることが結婚後の生活の大事な部分となるが、日本はそうしたものを失なっているとチベット人の賢者が司会し、補足説明している。

男が頑張れずにだれがリードできるのか。半島人の「慰安婦の強制」などの捏造話にたじろくのも、背骨がとおらぬ気弱さからであろう。適切な表現かはわからぬが、2流国の人に言われたくないと感じるのは、それらの国々の犯罪率や経済力を比較すれば、負けるものかと感じるからです。まずは隣国人の言うことなど7割嘘と考えて「事実か確かめる」と突き放して調べるとよいのだ。ベトナムの少女が殺されたなどを聞くと寂しいし、負け惜しみかもしれない。

やはり1流を目指そう

先述したが、たまたまだが、影でいたずらっ子だったのを父親に見抜かれ、ルーテル教会の日曜学校と夏休みの禅寺に寄宿させられ学んだことは宗教だった。何をしてはいけないかをキリスト教で教えられ理解した。教育は暗記と理解とだけ。大学で法律を学んだことで、道徳や法哲学(倫理)をやったが、日本人はこうあるべき、してはいけない事という生の声での説明はなかった。

いよいよ日本でも道徳教育が始まり、そこを教えるというから、これからは我々よりは少しはまともな日本人になり、明治時代のように、胸をはって外国人にも『俺たちはこういう人間だ』と言え、気概がもてると感じるだろう。ただ生活に密着した低学年の子供たちが、国全体が1つの宗教というのも難しい話で、家庭、町村から倫理などを体験で身につけてゆくしかない。希望をもてる若者が創れれば、しっかりした意見をもった宝をえることで、どんなにか嬉しいことです。

宗教について1言; 
この世に頭を下げる人間がいると認めない人、これは欲得だけか、無知な人と思いませんか。わたしは頭をさげる人(概念でも同じ)がいる人のほうが安心できます。過去の知恵でもおなじ。自分を生み育ててくれた親、町村の人を敬う。
だが制度としての年功序列は反対します。個人としては長老には頭をさげます。宗教はその知恵と生きる価値をおしえていると感じます。無心論者とはそういう謙虚さの欠けた人とみなされる感じがします。ルーテル教会でキリスト教はおそわり、仏教は般若心経やだいはつ涅槃教を学びました。

だが、仏教は神の言葉ではなく、釈迦が苦難の修行で悟ったものを伝授しようという点で、ほかの宗教より、現代科学にも沿っていると今の私はうけとめています。
教えはだれが考えたかではなく、個人的なものだから押し付けないが、よいものは良いという強さも必要です。失礼な言い方かもしれませんが、国産はゆる過ぎ、弱すぎるのです。国産にこだわらない方が、日本人も生き方が開放され、進歩できると感じる。 
   

0 件のコメント:

コメントを投稿