15197番外
奴隷解放宣言は非常時下の軍令だった
(ジム塚越氏の寄稿です)
先に記したようにリンカーンの当初の奴隷制に対する姿勢は、 新たに連邦に組み込まれる西部州では奴隷制を禁じる、しかし、 既に奴隷制を敷く南部州では現状維持で奴隷の自然消滅を待つ、 というスタンスだった。また、 解放奴隷が流入して失業問題が更に悪化することを恐れる北部への 対応としては、黒人は白人との共存が不可能なために、 アフリカ大陸、 あるいは中南米に植民地を設けて送り込むことによって解放奴隷と の軋轢を避けることを唱えていた。
19世紀前半に南部に強大な支持基盤を築いた民主党に対抗するた
リンカーンの、 西部州への奴隷制拡大は禁じるが南部に現存する奴隷制度は容認す る政策はこの目的に適っていた。
リンカーンを支持した共和党有力者は政権獲得のためには奴隷制に 対して穏健な政策を掲げる必要があり、一方、 政治家としては無名に近いリンカーンもそれに乗じて候補者に名乗 り出る必要があった。その両者の思惑が合致したことが、 選挙の直前になって名が知られるようになった新人のリンカーンが 共和党から大統領候補に選出された理由だった。 倫理観から奴隷制度の全廃を訴える急進的な共和党候補では民主党 内に南北間の亀裂を生むことは無理と党指導層が政治的な判断をし た結果だった。
ところが、共和党政権が成立して当初の目的が達成されると、 共和党内では、 奴隷制度全廃を主張する急進派と穏健派の対立が顕著になった。 更に党内や政権内での対立の火に油を注いだのが、 南北戦争の推移だった。
リンカーンが就任するやサウス・カロライナ州が連邦から離脱し、 南部諸州もそれに追随して南北戦争が始まった。 圧倒的に工業力で勝る北部には、 南北戦争はせいぜい数十日で北部の勝利に帰すという見方が多くを 占めていた。リンカーン自身も、 また閣僚たちの間でも楽観論が大勢だった。
このようにして戦闘に臨んだ連邦軍だったが、
メリーランド、ケンタッキー、ミズーリーの3州は奴隷制を抱え、
政権への支持率アップとボーダー・
こうしてリンカーンは就任2年目の1862年3月に、 漸進的な奴隷制撤廃と奴隷を州政府が買い上げ植民地に送り込む、 そしてその経費負担を連邦政府が支援する、 という大統領令を発布した。 このように奴隷制が再び政治の道具に利用されることになった。
この大統領令に対して応じたのは、
同じ頃にそれまで南部の領土だった一部を北軍が占拠し、
しかし、戦局の悪化と身内からの突き上げで、
世界史に記憶される1863年1月のリンカーンによる奴隷解放宣
南部政府の支配地で解放された奴隷が動乱を起こす、 あるいはプランテーション経済に打撃を与えることが期待できるこ の案は、政権批判をかわす妙案として、 閣僚連や議会の有力者からも賛同を得て所期の目的を達した。 このように宣言の背後には政治目的が隠されていたのだ。
軍令だったことを示すのが、 奴隷解放宣言の冒頭に見られる次の表現だ。 単に大統領が宣言したのではなく、 米国政府全軍を従える最高司令官が内乱軍の討伐のために発布した 宣言だったことが明瞭に記されている。 多くの歴史教科書はこの冒頭の部分に触れることがない。
Now, therefore I, Abram Lincoln, President of the United States, by virtue of the power in me vested as Commander-in-chief, of the Army and Navy of the United States in time of actual armed rebellion against authority and government of the United States, and as fit and necessary war measure for suppressing said rebellion, do, on this first day of January ……….
リンカーンによる奴隷解放宣言はこのような統治手段のためであり 、人道上からの奴隷の解放は当初の目的ではなかった。 南北戦争は双方に50万人に達する戦病死者をもたらした米国史上 では最も多数の人的損害を生んだ戦争だった。
白人同士が南北に分かれて4年間にもわたる激戦を交わした目的が 黒人の人権擁護のためだったはずはない。 黒人の人権擁護が俎上に上がるのは20世紀も半ばを過ぎた196 0年代まで待たねばならなかった。
南北戦争とは資本主義経済の発展のために不可欠な自由に流通する
塚越
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