あるがままに見ることの難しさ(2)
貿易戦争の渦中にいて
米国と日本とは軍事同盟をむすびながら、経済の面では米国市場での攻防を繰り返してきた。
70年代の前半までの円がドルに対して360円から308円に切り上げられベトナム戦争の終わるまでの時代。それに対抗してアラブ産油国がOPECを結成し、原油が2ドルから11ドルに切りあがった第1次オイルショック。このあと日本の製品は工作機械類での数値制御つきになり、安かろう悪かろうの中級品から、品質1位をめざすものに急速に向上したのだ。
シカゴでは家電品のテレビが市場の主役になり上がる道で、ダンピング提訴で苦しみ、鉄は80年代にはトリガー制度で米国メーカの防衛をする、守戦を強いられたいまいましい時代でもあった。だが米国側から見れば全く逆の思いがあったことも忘れてはなるまいとは思う。
そして徐々に225円に近づいていたが、自動車の米国内での製造を求められ、それでもシェアが伸びるのに耐えかねて、プラザ合意で1気に125円までにレートが上げられた時代でもあった。これは流通業にとっては、戦後の最大のバッシングだった。
メーカは米国市場で現地製造ができないものは、量産品では終わったといわれたのだ。モノの貿易の限界を予想し大手商社は業態をかえた。
シンプルな例えでいえば、もし隣国や東南アジアの留学生がやってきて、そばの本場の群馬県の町でそば屋を開いたことを想像してもらえると分かりやすいかもしれない。
しかもその店の方が、安くて腰のあるそばで大繁盛になったりしたら、元々の50年も続く老舗は立場がないだろう。『人の振り見て、わが振り直おせ』ではないが、そろそろ日本人も、米人に文句ばかり言っていないで、さらに大きな感謝の気持ちをもってもいい時期だと思う。
ここ10年の米国での韓国の女子プロゴルファーの活躍ぶりは、すでに米人でもにがにがしく思う人達もでている。選手の英会話力などにクレームが付き、次にはゴルフ場で偉そうにする父親が指摘された。自分たちが主役と思うスポーツの世界に入ってきて、トップ20の6~7人までがコリアンで、マナーが問題になっている。そのせいかテレビの視聴率に影響し始めると、協会も放置するわけにゆかないところまで近づいている。日本でモンゴル出身の横綱のマナーが問題となったのも同じだ。偏見ではなく、勝者には勝者たるべきマナーがあるということ(米記事)。
日本人が足元に火がつくまで無神経でいられる理由
範囲のせまい細かく分けられた守備を、ミスが無く、深堀りすればよいという育てられ方をすると、年功で守備範囲を増やされても、視野は広がらない。井戸の中から見る空は広がらないのだ。
このシステムの欠点は、上から目線を嫌う体質になるから、地域の縄張りを横展開するだけで、新たな機能を取り入れたりすることが難しいのだろう。
その点では中国人ははるかに広い見方ができるように感じる。行動は自分勝手な我利我利だが、大事な要点での把握は自己中心ではない。ホワイトハウスから来たというアドバイザーの中国系の人に会ったが、大学は理系でいながら、『なぜアジア人は小国がみなばらばらで纏まろうとしないのだろう』という。まあ、衝突するのは避けたいが、『4人ゼロ和のマージャンみたいなゲームのやりすぎで、全体でのパイを拡大する発想が少なすぎるのではないか』と私見を伝えた。他国に出かけてチャイナタウンをつくり、緬の店を開くのとはわけが違うのだ。実際はルールを逃げるより、発展させることができるリーダーが不在なのだ。
自分の持ち場が荒らされて、被害が近づくまで気がつく人が少なすぎるのは、日本人の1番心配なところだろうと、いつも感じている。人のことばかり気にして、あるいは責任範囲が狭すぎて、視野が狭すぎるのだ。機敏に動けるから、あまり前びろには考えないのかも知れぬ。
ならば、ばっと全体を把握して、その中での自分の持分はどう機能するのかという考えがあっても良いし、考える訓練が必要だろう。いま西海岸では港湾ストが長引いて、輸入品の滞貨の山で、部品不足で自動車工場が止まりかねない。何年かに一度はおきることだが。
反日と嫌韓の行き着く先は
最近のユーチューブ他での議論は、事実かどうかの確認もなく、胸のつかえをぶちまける低級な泥仕合が見受けられる。憎しみや怒りをぶつけ合って、その行き着く先は戦争しかないと分かってやっているのかどうか。戦争になれば3倍も4倍もの人口大国の日本が勝って当たり前だが、それで何をどう解決するつもりなのか。
全く考えないで、役にも立たないこと、いや関係をこじらせるようなことを投げ合っても、何の役にも立たない。こういう激語を投げ合う人間は、いざとなれば逃げるか、最前線で真っ先に消耗させられるのが習いだろうが、勝っても相手が統治できなければ、国内にも嫌悪を持ち続ける集団が出来るだけである。憎悪では解決できるものはない。
韓国の諸兄も中国と米国を手玉にとって、いずれかの虎の威をかりて日本を叩けると思っているのだろう。しかし輸出の26.1%、輸入の16%もを中国に依存して、独立性を保てるのだろうか。既に可なりの土地を中国に買い占められて、その内にいずれかの属国になるのではないかという余計な心配をしている日米人も少なくない。
仏教の指導者は、欲、怒り、欺き(あざむき*);の3毒をなくすのが修行だというが、隣国のように宗教(教会)を政治のPR道具に使うのも賢い方法には思えない。(*痴と中国人は訳したが、中国では欺かれる方が悪いという考えが多いと聞くので、バカな人というよりは欺くウソつきを罰する方が適当だと思う。)
まあ、最小限にお互いの経済交流だけをやり、あとはわれ関せずでクールオフしたらよい。
安部首相は『変化こそ、唯一の永遠である』と国会で語られたが、『常なるものはない(諸行無常)』という仏教の教えであり、日韓はすこし間をおいた方がよい。ただで金を払わないことである。
1部の米人ジャーナリストや政治家・元行政官などを味方につけ、タイミングよく慰安婦問題で”米国の意見”を出させているが、日本も毎回おどしにのるほどの小国ではない。
これから最悪の事態として、再び東西の冷戦時代にもどるかもしれない。最後の対決は、どう見ても価値観の違う国の間でのものではないか。法治が欠け独占的私企業のような運営をする隣国は、自由市場では有利かもしれないが、自国を開き透明度の高い国内市場にしてくれなければ、不公平だからいつまでも放置しえないのだ。
どうあがいても防衛面で自立の意思に欠ける隷属国のいうことを聞き、日本を見捨てるほど米国は余裕があるわけでもない。もし中ロが手を組むなら、そのあとは2国の対決がまっている。米国はそれほど簡単に音をあげるほど弱い国ではないし、米国との対決は2国とも避けるだろう。
思いをつよく持てば実現するかもしれぬと考えてのことだろうが、その手法があまりにも歪曲があると、それを正確につたえることには無理がある。国内に不協和音があふれるからだ。無理をせずたがいに相手とは最小限のふれあいで沢山だというのが、今の状況であろう。
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あるがままに見ることの難しさと危険の防止(1)
表現の自由を守るとか真実をつたえるとかいうが、どの程度にそれが可能なのかはなはだ難しいと思う。文学で作家は創作するというが、「作家の仕事はウソを作ることです」などと平気でいわれると、人によっては不安に感じ、米人なら多くが不愉快な気分になるだろう。
好きか嫌いかでなく、何でもありの隣国との付き合いを見直さないと、世の中の良貨が悪貨にくちくされると書いたが、善悪を教えるだけでなく、その方法としての人間としての正直さを立て直すこと、ウソで害のあるものを禁じるのも立法府の政治家の役目だと強調したいのだ(正直度測定方法)。
表現する側の限界
① 人によるバラつき;
同じ会社を訪問して、そこに働く人々にあい、話を聞き、事務所や工場の中をみても、何をみてきたかにより、その記録は訪問者によって大きく変わる。入社して3ヶ月、業務日誌に訪問先の会社を、長くはもたないと書いて、上司に批判されたことがある。見せられた製品の斬新さを確信し、これから相当に売り上げが伸びる可能性があるというレポートにもなる。
日本の会社を日本人が見ても、見せられたモノに関する評価能力がどの程度か、という眼力や判断力による違いも大きいだろうし、どの位は脚色して書くことが許されるかにもよる。
② 正確に伝えることを要求される一般業務;
殆どの仕事では正確にモノを伝えるということは要求されたが、正直に仕事をしろといわれた記憶はない。不正直などという考えは入り込む余地はなかったと言える。しかし、その後様々な会社の色々な人にであい、世の中には要注意な人間がいることを知った。(実は学生時代に無料法律相談所でボランティアをして、金がからむといかに醜いかを知り、半世紀近く昔だが、法曹界には失望した時期がある。)
社会人になり1流会社では皆が正直だったが、約束された納入時期になっても入って来ないで、パニックになったり、特定な人のいうことは当てにならないというパーターンがあることも分かった。
良い会社ではここにウソや虚偽の記述があれば、誰の作成かは間違いなく分かるようになっている。『ミスでした。申し訳ありません』といって済まされるものは少ない。ほとんどの物やサービスの売買などの商行為には、何重にもチェック機能が介在し、ごまかしが効かない仕組みが出来上がっている。その意味では、政治の世界のいい加減さは、制度と運用にもあると思う。
20代の頃はだれもがそうだろうが、出来るつもりでやってみて出来ない試作や、ものの境界線にビジネスのチャンスがあるという経験はなかったが、その辺りに面白いことが多いという意識はあった。だがそれは、小説で言う創作の虚と実の境界かという事になると、虚を実として販売するのは詐欺であろうと考えるのだ。
③ 売るためにウソが許される事例と、許されない職種の識別;
ウソが創作として許される作家業と、それが認められない職種の違いはどう識別するか。
第3者の命にかかわる事例でのウソは許されるとして、平時の逆の軍事、ことに戦争自体に関するケースや、イスラム国の人質のケースなどは、虚偽のかく乱情報を相手がながす場合、こちらが手の内をあかすのは人命に係わるなら、自己防衛でのウソは許されるのであろう。
平時のケースでは、どこで線引きするか。ニュース記事とオピニオン(意見)記事との表示を明記させて済むのかどうかである。作家が史実の体験記と称して虚偽の出版をしたら、詐欺だと訴えられるリスクだけで放置するか。それに対し大手のメディアが「売らんかな」と中身が虚偽でも支援した場合の防止策は出来ているのだろうか。
オピニオン記事には、事実確認のレベルが怪しいものかどうかは、それを監視し、評価グレードを付けるNPOを設けてはいかがであろうか。行政の問題かもしれないが、電力会社の汚染水の放水などは、当然ながら厳しい罰則があっても良いだろう。
④ 捕まるまでは許されるのか犯罪への寛容さと、弱いものへの労わりのなさ
腹腔手術では群馬の医大病院での患者の死亡者8名にも達したが、あきらかに監督責任ばかりか医師個人の「人命を救う職業」への不覚悟がとわれるケースにみえる。その医師の技術てきな熟練度をいうなら、認可制度をつくらぬなら、成功例の有無、成功比率などが検証されてしかるべきであろう。この医師が「良好な結果を得ている」という虚偽のPR説明の方も、無視できまい。
川崎での中学生の殺害に対し、自分の悪行よりは、それをグループ外にばらしたことに対する仕返しの方が優先できるという正当化の思考をもつ18歳。人命へのやってよいこと悪いことの判断ができていない家庭を含む自治体の育児。わかっても自己利益を優先させた医師の判断。
どうもここには似た思考があるように感じられる。
ジャーナリズムの危険性と予防策
ここ2年ほど調べて日韓関係がいかにゆがめられて来たか、その原因がどう考えても意図的なウソの記述に始まった少女の募集方法が強制であったという著作と、それがきちんと確認されずに尾ひれがついて拡大していった経緯があった。創作(捏造とよべる)をあたかも現地での体験であると偽った作者がいて、本のプロモーションのためかは知らぬが、体験がなかったのを補うかのように、韓国にでかけて土下座をして謝罪してみせる演技までしたのだという。こんな迷惑な男は処刑の対象であるべきと感じる。
さらにはそれを、事実として大々的にとりあげた新聞があり、国民にとって不幸なことにそれを国家間の賠償に発展させ、その意味では善意を通りこした、政治家を中心とするグループがあった。虚偽を認めた作家も日本人、それを報道したのも日本の新聞、形を変えた賠償にまで合意したのも日本人。それを信じて金(税)を払ったのも日本人。だまして金をとった人々(国)があったこと、それに国内で呼応した詐欺グループ(とよべるだろう)がいたことも、恐らくあったのだろう。
刑法上の犯罪とすべき事項
だが、いまさら『日本人は正しかった』といえるのかどうか。強制性を否定できても、『なぜここまで放っておいたのか』といわれ、集団としての日本人が責められたとき、悲しくなるほどの愚かな不作為が感じられるのだ。
南京事件の2の舞ではないかと言われればそれまでだが、そういう大きな視野でものを眺める頭脳集団を準備しなければ、また同じことが繰り返えされるだろう。
「表現の自由」にも限度があり、外国がからむときは個人の利益のために、自国の不名誉となる捏造は創作ではなく加害として、刑法上の犯罪としては如何か。歴史の反省はそこまですべきであろう。
バカバカしいと笑われるだろうが、売春行為にも支払い伝票が義務づけられ、サービス完了伝票が要求されれば、明らかな商い(あきない)が行われていたことになる。あとは拒否できれば無償の強制かどうかの議論もなかった筈である。貧しい親が借金をした形にして娘の役務契約を売るという部分にも法的な管理が行き届いていれば、強制のうむについての議論が省けたであろう。
それは半島で何が起こっているかの報道を制限した軍部にも明らかな責任はあったのだ。
今でも半島においても中国でも報道は監視・検閲され、法治を装うが、その運用は恣意的な適用であり、対外的な損得勘定だけで行われているのだ。その被害者が産経新聞の支店長といえるだろうが、それに対し、いかなる対抗そちがとられたのか。
表現の自由と表現しない悪用と
これは人の思考を狂わせる煩悩は、貪,瞋、痴(ドン・ジン・チ=三毒)とよばれるが、現代の言葉になおして強欲・怒り・欺き (部分記事)と教わっている。ジャーナリズムやメディアも事業ととらえれば、多くの毒をまき散らす記事は、欲に因る加害行為だといえるのではないか。(辞書)
法廷での売春婦(慰安婦)の証言があり、強制ではなく借金と役務契約のいわゆる人身売買があったとしても、それを記事にしないジャーナリストがいて、歪められた記事になって日本中が信じこまされたとしたら、これはどう防止できたのであろうか。朝日の記事に対する他紙の沈黙はいかなる抑圧理由であったのだろうか。
それが事実でないと考える人達により、簡単に訴訟により記事の訂正や、罰金の支払い義務が生じるような防止策は可能であろう。報道ニュースも商品であるとすれば、消費者庁での判断に持ち込めるのか否か。要するに、ウソを書くと罰がくだり、痛みが発生するのであれば、メディアもジャーナリストも、もう少し真面目に中身を点検するだろうと考えるのだ。
書かない自由があるとすれば、それによって知る権利が侵害されているとみる消費者ができることは、ただの購読中止だけなのか。売れる記事でなければ書かないという商売上の自由と、報道責任とのバランスがくずれると、情報源をまもるなどという真実追求の保護も机上の空論になるおそれがある。政党ではなく、常に特定の会員を1万人なり、10万人抱えた集団がいて、地方紙のキャップに面会できるようにすると、警察署長も同様で、新聞を通じて政治を動かせるという青山氏(ジャーナリスト)の意見は貴重だと思う。
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