1493-世界を変えた大陸間の「交換」(チャールズ・G・マン著、布施由紀子訳)を読んで(2)
欧州の奴隷は、米国に持ち込まされざるを得なかった
アダム・スミスなど進歩的な人々は英国に限らず、奴隷制度や人身売買を強く非難していた。道義的にも非人道的であるばかりか経済的でもなく、「威張り散らしたい欲望」から生まれた階層もあるが、経済的にも奴隷の市場価格のほうが、イングランド人の年季奉公人のコストより3倍も高かったからである。16~18世紀には英国海岸はムスリムの海賊が多数で襲い、船乗りや兵士、商人などが拉致され奴隷という資産として捕らえ、あるいは船ごと乗員を売りとばし、異教徒やカトリックを非難した。
イングランド人の奴隷がエジプトやアルジェ、モロッコなどに売られて1千人単位で住んでいた背景から、英国としてはスペイン・イスラム人などを敵視する背景があり、十字軍では終わっていなかったといえそうだ。(参照グラフは編者の引用; ペルー銀に関し真鍋周三を孫引きした;https://www.kufs.ac.jp/ielak/pdf/kiyou12_01.pdf)
スペインの隆盛は、銀の産出納税額の推移グラフで見られるように、18世紀の初めまでで終わった。16~18世紀に産出された銀は15万トンいじょうに達し、欧州の銀保有量は倍増、中国にもその1/3から1/2が渡ったという。
現代的にいえば、大幅な金融緩和インフレ策だ。中国はチャンスを逃さず、あらゆる欧州物品をコピーして出荷したというから、欧州の産業を食いつくし、現在と変わらないやり方だ。
有名な景徳鎮の陶器は人材が短期労働者で置き換わり、技能工の人材を育てることはしなかったようだ。茶畑は山の頂上まで。絹も労働力不足で継続性に疑問。
中国人は基本的には、金になれば楽な方向に向かうとみえる。伝統と技術に誇りをもつ日本的なやり方はとらない。(最近の湖北省の茶畑;)
(最近の英国のEU離脱は、かってイスラムにより奴隷にされた経験もあり、イスラム難民受け入れに対する英国人の拒絶反応は根深いのだろうと感じさせられた。経済優先の大陸EUのエリートとは違うのではないか。)
1650年ころは、アメリカに到着する奴隷は最初は少なかったし、ヨーロッパ系入植者の3分の1から半数は年季奉公人だった。しかし商業の進んだオランダ他では、すでに自国にも多数の奴隷を抱えていて、新大陸のヴァージニアでは奴隷の数は1万5千人に急増した。
こうしたヨーロッパ発の年季奉公人は奴隷よりは安くても、1~2割の生存率では引き合わず、マラリアにも生き残る免疫力をもった奴隷をアフリカから仕入れる方がよいと変化していく。植民した年季奉公人は契約を更新するよりは、安価で広い土地を入手して、自力で農地を開拓しようとする比率も増えていった。
マラリアが奴隷の需要を高めた
目に見えないマラリヤ菌が原因で半数を失う入植地よりは、10人中9人が生き残る農場のほうが、経済的で競争力もあり拡大できるため、奴隷を認める政策との衝突で、米国でも1861~65年の南北戦争(内戦)にいたるのだ。これは北東部の2次産業と農業の衝突でもあった。
1641年ころ、南米でもブラジルの南に位置して涼しくて、マラリア蚊の棲まないアルゼンチンにも20万人以上、米国北東部マサチューセッツでも8%の奴隷がいた。(マラリア;国立感染症研究所; )
マラリアとは別に奴隷制度は存在していたが、マラリアが多いブラジルには奴隷は220万人だった。1781年の米英戦争の勝敗には、マラリア蚊の影響は大きく、英国が敗れた。その後の南北戦争では、当初予定していなかった奴隷解放宣言を北軍が採用して勝利をえたと著者はいう。マラリアに強い奴隷が米国に送られ、独立戦争や南北戦争で奴隷解放のインセンチブになったのは驚かされる。
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