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(15181なぜ日本ではやれないのか)改定
(15181なぜ日本ではやれないのか)改定
日本人が国際社会で活躍するために
発想の自由を抑制する「好かれたい願望」を捨てることです。
(やりたいことを選び実行するための障害)
14145自由すぎる行動と、自由な発想が足りない思考と(1)を併せ参照ください。
はっきり言わしてもらえば、日本に戻ると、自由がないと感じるのは、幾つかの理由があります。『空気が読めない人ね』『それは具合が悪いでしょう』といわれたらオシマイと考える羊のような大人しい人が多過ぎるからである。
何をするべきか分かっていないのだろうか
この10年ほど、隣国などの言いたい放題の嘘や、やりたい放題の言動や行動を眺め、「彼らは国際社会に生きているのに、日本人はなにをしているのだろう」と考えてきた。
中・韓の行動パターンは日本で言えばヤクザのそれで、「インネン」「弱み」を拡大し、こちらの対応をみて「脅す」。ここで既に戦いを仕掛けてきているという自覚がないと、話にならない。言葉つきや態度で弱さを感じるところを拡大し、あいまいな境界で(根拠がなく)一方的に自信満々なジェスチャーでの「張ったり」で断言する。ここで強い反論がなければ「しめた」である。
あとで「なぜ直ぐ反論しなかったのか」と追い討ちをかける。
『あそこまで言うなら、ここで大人気ない議論をするのはやめておこう』と引き下がる。これが繰り返されて、相手は更に拡大した捏造ばなしを世界中に流して歩く。この結果が慰安婦であり、南京事変だといえば言いすぎかもしれないが、ピント外れでもない筈だ。民間の売り買いの場面でも、最後のネゴは似た場面がざらにあるから言えるのだ。
「ゆで蛙」作戦;表現の自由の行き過ぎのリスク
どこに問題の原因があったかといえば、まずは日本人が自国を貶めることで出版しようと考えた著者がいて、その本が販売数がのびるので金になると考えた著者と新聞社がいたからである。(それが隣国で翻訳されれば、日本人が認めている証拠にされる。)
なぜここでストップをかける政治指導者や行政官がいなかったかといえば、「ゆで蛙にするには、温度をゆっくり上げる」という敵の策に嵌められたのだ。国内で『表現の自由』に歯止めをと考える学者やジャーナリストがいなかったからだ。
危険なおだての例では多分、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』もあっただろうし、産業界が好景気でやや天狗になっていた時期だったのだ。
「憲法9条」も同様で「やらない理由」であり、相手が撃ってくるまで撃ち返すなというバカげた自衛の条件になる。これでは国境を守ることも、拉致被害者の奪回も出来ない。
どう見てもこれ程の結果になっても、いまだになにもしないかと言えば、国の利益を真剣に考える人が足りないからか、ビジネスマンである我々自身がだらしなかったのだ。
経済的なダメージとは、自社に損害が及ぶまでは、痛みを感じない教育か育児かに問題があるようだ。英国などでは(潜在てきに)競争国をほめるジャーナリストの記事を本社で採用しない企業政策があるように伺えるが、日本では紙数がのびるかどうかという面だけが優先されているのではないか。
何をいいたいのかと言えば、国や地方の産業に著しい悪影響をあたえると判断される出版物は、それを制限させる法規があっても良いのではないか。まえにも述べたが中国では外国の新聞社や特定の記者の取材を制限したり、そのマネをする韓国などでも記者を投獄しているが、それに対する相互措置があっても良いのではないか。こちらが報復アクションをおこさねば、それを認めたと受け取る相手がいるのだ。産経新聞の責任者が捕虜になれば、交換できる隣国人が何人かいても良いだろう。
結果としての取材は「相手がよろこびそうなことばかりを取材し日本で報道する」隣国のPR機関になっていないか。毎年20万件も起きている各地での暴動や騒動も聞こえないで、進出してからことある毎に暴行にあう企業など、視聴者の利益を著しくそこなう役をしているメディアになっている。すでにユーチューブなどネットメディアが欠かせない。
朝日は最初に中国での取材が許された会社だったと記憶するするが、中国の御用新聞になり、韓国はそれをマネしてか、産経新聞の記者の解放をつよく求めない。
ジャーナリストも自分たちでこういう動きを排除する自浄能力がないと、いずれは検閲やスパイ罪を復活させる事にならないか、デマやゴシップに収入源をゆだねる危うさを感じている。
失敗を恐れているのではない、もっとよいものを待っているという言い訳
過去の原因を将来の事例につかう場合は、やらない原因を過去に求めているだけである。 問題があるときは、その原因が過去にあると考える人は、「その原因が正しいことを前提にして」、「できない理由だけに使う」。
未来に目的があると見る人は、過去を見ていても解決には繋がらないと考える。(野党の反対理由をみればよい。与党が何をやろうとしても、野党は賛成する気などない。自分が政権をとったら話は変わるというだけのことか。)
つまり、過去の経験・理性・思考を使う人は、それを使うことを選んでいるが、未来を選ぶ人は、目的のために思考をつかう。どうすれば達成できるかと。それができないのは、やたらに思考が細分化され画一化されている枠がありからだ。
上から目線だ、ため言葉だという昔の儒教の上下ことばの影響や、業種別、会社別な企業内のウチ・ソトの思考と行動。隣国が投げてくる『歴史認識(こんなものは彼らは持っていないで日本人を縛り付ける為だけに引用している)』、こういう壁を取り払ってみると、晴れ晴れとした世界がある。
上から目線だ、ため言葉だという昔の儒教の上下ことばの影響や、業種別、会社別な企業内のウチ・ソトの思考と行動。隣国が投げてくる『歴史認識(こんなものは彼らは持っていないで日本人を縛り付ける為だけに引用している)』、こういう壁を取り払ってみると、晴れ晴れとした世界がある。
ある行為Aが善であると知っていて行わないのでなく、行動を先送りして、あとから別のBがその時点での自分に善であると判断しているだけのこと。
つまり、ある行為やある時点でやらない理由がない場合、次の時点では別のやれる行為があるかも知れないから、今はやらないという理由付けを常に作ろうとするのだ。「分かっているが出来ない」という時は、出来ないのではなく、やらないだけである。
つまり、ある行為やある時点でやらない理由がない場合、次の時点では別のやれる行為があるかも知れないから、今はやらないという理由付けを常に作ろうとするのだ。「分かっているが出来ない」という時は、出来ないのではなく、やらないだけである。
ある時点Aに、最善であることA’は、ある時Bには別の最善B’に変わっている。A’でなくB’にするか、時とやる事の変更は自分がしている。とアドラー氏はいう。
選択責任は選択する人にある。それを時という時点のせいにしたり、別の選択肢にする理由にして、ぎりぎりまで選択の余地がなくなるまで待って、已む無くという形で決める。本当はどちらでも殆ど変わらないし、遅らせる理由もない。これは反対論にむきあう勇気がない弱さだけではないか(『アドラー』)
人に好かれようとすると、自分の目的が達せられない
人にどう思われるかを気にすると、非常に不自由な生き方になる。絶えず人に合わせてゆく八方美人は自分の目的が立てられず、不信感を持たれる理由になる。
政治家が典型だが、次の選挙で不利になることは、良いと分かっていてもやらない。しかし、どうせ世の中の半分は、貴方がなにもやらなくても、貴方を好きにも嫌いにもならないとしたら、あえて何かやろうとするのはバカでも賛成することだけになる。
『自分のことを良く思わない人がいるということは、私たちが自由に生き、自分の生 き方を貫いているから』又は、自分の方針に従って生きている、とさえアドラーは言う。
ならば自分のことを嫌う人がいても、自由度の高い生き方をした方がよい。
米国のほうが自由だと感じるのは、貴方が何をやろうとやるまいと、それが自分の利害に関係なければ反対はしないからだ。日本に戻ると、『空気が読めない人ね』『それは具合が悪いでしょう』といわれたらオシマイと考えるのである。
米国のほうが自由だと感じるのは、貴方が何をやろうとやるまいと、それが自分の利害に関係なければ反対はしないからだ。日本に戻ると、『空気が読めない人ね』『それは具合が悪いでしょう』といわれたらオシマイと考えるのである。
やって出来ないと思うことは、失敗を恐れるからやらないというのは本当だろうか。やらない人も多いが、やってみたら出来ることも多い。何か画期的なことならともかく、0%か100%かの成功率ではない。殆どは60%から80%の間の違いである。誰もが賛成する(反対しない)ことは、今の現状維持でしかなく、それでさえ反対する人がいたらどうしますか。米国では100点を取らせたくて、110点満点にする教師もいる。
「どうして欲しいか」を発言しなければ貴方の意見は聞こえない
自分の意見を持たなければ、誰もあなたが何を希望しているのかを聞いてくれない。
その程度の勇気を持たない人は、民主主義の社会には生きるのは不適切なのかも知れないのだ。つまり勇気のない人では、民主主義は守れないのだ。
他人の期待を満足させるために生きなくてもいい。他人も私の期待を満足させるためには生きてくれてはいないのだから。
自分の目的を満足させるために生きればよい。つまりは、自分のやりたいことに相手の賛成が必要なら、強くお願いして賛同してもらう必要があるが、そうでなければ相手がどういうかは気にしないでどんどんやるほうが良いということになる。
だが、重要取引先のオーナーの期待がある場合はどうでしょう。60%達成でも70%達成でも、続けているうちに達成率は上がってくるから、やったほうが得なのだ。
だが、重要取引先のオーナーの期待がある場合はどうでしょう。60%達成でも70%達成でも、続けているうちに達成率は上がってくるから、やったほうが得なのだ。
分かって反対するのかと考えて、その人間にやらせたらどれだけ出来るか。結果はメチャメチャだった場合が山ほどある。反対するだけでは、その人間が出来るという証明にはならないのだ。政治の話しに限らないのだが。
メニューの選択よりは複雑な比較や選択の話では、なぜこちらを選ぶべきかという比較を説明できる能力が求められる。
任せられても、ベストな選択をまって欲張りすぎれば、時間だけは空費して混乱してしまう。その判断がつかない人は、そういう話に耳を傾けて自分の判断力を養うしかない。
任せられても、ベストな選択をまって欲張りすぎれば、時間だけは空費して混乱してしまう。その判断がつかない人は、そういう話に耳を傾けて自分の判断力を養うしかない。
つまり、反対をされるのを恐れるのではなく、自分はこちらを優先したいという意見を持ち、それを発言すると必ず反対する人ができる。そのとき初めて、あなたは自分が価値ある存在になると考えればよい。
そうでなければ、人の意見を賛成して、その人が行動できるか確かめて、それに奉仕したり支援したらよい。
好かれようとするのは人気商売
何をやらせても出来ないから漫才やコントをやっているという人もいる。一寸かわいいからと女性の合唱やダンスをやっている人も多い。歌手を志望しても続かない人も多いのは、不可欠の声量・音域・声のよさをもたないからだ。それでやたらにグループでやろうとする。人に優る身体能力、充分な訓練に耐えられる意志力が伴う人。スカウトされて、訓練を続ける力や送り迎えの費用を払いつづけ、声援し続けられるサポート。こういうものがそろった人がスポーツや芸能の世界に生き残るのだろう。
周りの夢や期待を背負っている人気商売の最たるものは芸能・スポーツ界と政治家であろうか。人気とは何か、イチロウ選手がはっきり言い切ってくれたが、単なる声援だけをお願いしないのはこの人らい。国際競争で勝ち残る力(努力)と爽やかさを感じた人も多いだろう。
勇気と覚悟の要る職業
ジャーナリストの世界でも、後藤健二さんが命を覚悟してシリアに出かけ殺害された。形は違うが それぞれの職業人の覚悟の生き方を見いだせる。職種により命をかけないと、実際の現場が報道できないから、そうした人を応援できないと、限られた情報しか入ってこなくなる。危ないから行かせないのは一般の人達で、危険な職種はリスクに対する報酬と、それを守ろうとする体制・精神力が求められる。
それぞれに対し賛否があるだろうが、再選を考えるとどうしても、八方美人になりがちの政治家には、いま少し勇気や覚悟を望みたい。
人質の救出の件; 今回の『犠牲者2名は最悪の結果』という批判をするメディアや野党人がいる。こんな非常識な情けない人達はあるまい。人間の命が掛かっている時には黙し、それを利用して自分の立場や利益に誘導しようという情けなさ。価値観がないとしか言いようの無い議員が多すぎる。
ヨルダン人に対して、『パイロットより日本人を優先して助けて下さい』などとは口が裂けても言えないから、一緒になんとかという気持ちを伝える苦労は並みではない。こちらは過去の地域貢献と難民救援活動である。相手がそれを利益だと思わなければ取引はできないし、予防もできないのだ。
こうした苦しい現地での交渉する人の立場と心痛を思いやるのが、非常時の同じ日本人として味方というべきだ。つまりヨルダンとイスラム国とは交渉する利害があるが、日本は当事者になりにくい。
この犠牲者のジャーナリストの母が韓国人であるらしいというネット動画の騒ぎも情けない。だから国としてはどう違った判断をすべきだというのか。在日であろうと無かろうと、命がけを覚悟して日本人として生きている人間は、政府として守ろうとして当然だろう。国内にいて目立てばよいという口だけのジャーナリストや議員は腹立たしい。
反対意見を抑え「やるとしたら、どうやるか」だけを考える
突如膨大なデータをだして、3日で意見をだせというような無茶なことをさせない為には、金額により検討期間をきめる大枠を作ってはどうか。なにを言いたいかといえば、経営でも政治でも、反対のための議論はさせないことにできるからだ。
優先事項を選ぶ理由と、それをどう達成するかだけをポジティブに考える人間を、育成するという仕組みが要るということ。それでも予算が上限になり、しっぽ切りは、多数派が決めるのだ。
もう1つはやった人に桁違いの褒賞をだすことだろう。例えば、新しいことにチャレンジしたお陰で、1千万円の余計な収入があった場合、たとえば利益のでた初年度は3割、2年目1割という比率で利益を分ける。そうすれば皆さんの目の色が変わるだろう。
不毛な議論をせずに済むためには、与党が提案する議題を提案する権利があると仮定して考えるメカニズムをもつことだ。提案権は弱小政党でもあると仮定すると、その中での優先権はつくりあげるのは、やはり与党がもつということにならざるをえない。つまり登る山は与党が選択するが、どの道を登るかはどの政党も提案でき、それの中から選んで検討する。提案の無い、あるいは全く実現性のない提案は没にできるとする。
優先事項を選ぶ理由と、それをどう達成するかだけをポジティブに考える人間を、育成するという仕組みが要るということ。それでも予算が上限になり、しっぽ切りは、多数派が決めるのだ。
もう1つはやった人に桁違いの褒賞をだすことだろう。例えば、新しいことにチャレンジしたお陰で、1千万円の余計な収入があった場合、たとえば利益のでた初年度は3割、2年目1割という比率で利益を分ける。そうすれば皆さんの目の色が変わるだろう。
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