失敗しない方法(競争と失敗を避ければ成功する訳ではない)
(失敗と成功に2分せず、失敗という言葉を2~3年禁じてはどうか)
成功したい人は失敗を避けるか( 14058に加筆)
今の日本は、社会全体が失敗しないように、注意深くなりすぎていないか。目標を達成するよりは失敗の方に目がゆき、批判を予防しているように見える。一度、ある地域だけでも失敗という言葉を使わないで、批判をやめ、ポジティブに何をするかだけに注力してはどうだろう。
成功と失敗について様々な意見がある。中でもバーナード・ワイナーという人の、能力、努力、課題の難易度、運という4分説がよく使われるようだ。だが昨年9月から述べた「失敗の法則(原因)」(13001~13009)とはかなり違った考え方である。
違う理由は、私は実践にもとづいて、もう一度同じことをやる場合には、何が不可欠かという考えで見直している。これに対して心理学者はその競争社会の外にいて、失敗したあとの反省からリバースエンジニアリングで静的な分析を述べているように見えるのだ。
内的
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外的
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不安定
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努 力
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運
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安定
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能 力
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課題の難易度
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競争社会を理解できない背景(1例)
いまも文系にポピュラーな職種として営業系、販売などを選択した場合を例をとれば、就職してから数年たった場合にどう考えるかである。
ある商品の販売企画と実行を任された場合、それが思ったような成果がでなかった場合、どう考えるか。ワイナー氏の能力、努力、課題の難易度、運という要素だけでは競争社会では生残れないとし感じるのだ。(表はB.ワイナーの成功・失敗の原因)
その鍵はどこにあるか。成功するチャンスが5分5分ならやるかやらないか、一生懸命にやれば出来るだろうと考えるか。失敗のない易しい方法(7:3くらいの成功比率か)で、たとえば目標を低くしてやろうとするかに分かれる。5:5というのも完全な統計データでの50%という確率でなく、多分に主観的だからである。つまり、リスクを減らすための標準偏差を分析するまではゆかず、5割以上のシェアをもつ主流メーカーの売り上げの合計を調べて、全体を推計するような荒い調査だ。
日本では不作為の失敗を考えない?
これは企業では失敗に対するマイナス評価の方が強いか、それとも成功に賭ける方が評価されるかで分かれるが、この要素の考察が欠けている。
多分に政治の影響だろうが、マスコミも含めて、失敗者にきびしく、危ない橋は渡らない社会風潮ができると、企業内でも魔女狩り風土がはびこる。(その意味でも、隣国の非難、捏造などはピシャリと断固として叩き返す覇気がいる。さもないと相手の思考による自己劣化が始るのだ。)
いま日本中が反省しているのは、隣国の慰安婦の問題であろう。これを最初から『証拠を探せ、なければ無実だ』と突っぱねていたら、これほどの侮辱も受けずに済んだはずだ。安易に金で済ませてしまえと考えた政治家も残念だが、それを支持した左翼陣営、マスコミも考え直すべきだろう。
大学も学生の取り合い競争をしているのだから、頑張っても頑張らなくても給与が変わらない職種は、成果主義に変えたほうが、国際社会では伸びるのだ。(政府統計に2010年から韓国を比較対象国に入れているが、GDP2位の国が15位の国を相手にしすぎだろう。1人当たりで高いシンガポールか、イノベーションでダントツの米国の方が目標の意味があると感じる。)
もう1つは、失敗した時になんと言い訳するかを、選択肢を決める段階で考えてはならないのだ。やる場合には、どういう問題点を克服するか、その費用と可能性はどうかを検討する。
出来ることしかやらないと、自分の潜在能力のストレッチが足らず、伸びるチャンスを逃し今の場所にとどまってしまう。同じ坂でも上をみず、下を見れば下り坂に立ってしまうから、負けるのだ。
必ず達成する目標(基本業務)を100とすれば、まずは6割達成。これで自信を高め、残りを難易度の高いレベルにしてチャレンジして、そちらを50%達成すれば、80%達成になる。というのがビジネス世界であろう。つまりは努力を能力に変え、運を引き寄せるのが、能力アップである。
『競争には勝たねば負ける』と考えて、勝とうとするのだ
学者はいう《人は失敗したら、必ず“なぜだろう?”と自問する》と。その通りだが、その前に、何回か失敗体験も成功経験もあるリーダーは、失敗を予防するために、その要因となる障害をしらべて取り除き、改善し、ベターな条件でスタートすることを考える。 更に時間がゆるせば、それらについての能力や経験をもった人材の知見で補完し補強しようとする。つまり能力不足は、他人の経験で補え、改善ができるから、それもできないような薄利の賃加工仕事はやれないだけである。
問題は《能力不足だからやらない》という答えが社内でも、顧客にたいしても許されるか否か。《直面するうまく行かない事態を投げ出す確率は高くなる》がありうるのかである。若しくは、《能力は不足しているが、やりながらレベルアップできる》と考えられるか。得られた社員で戦うしかなく、能力は変えられないなら、どう補うか、あとは努力という考えしかありえない。
例えば、販売目標で10億円というのがA級の目標とすれば、B級ですからと8億円でも社内を通すか通らないかである。能力は、チーム編成までの人材選択の議論で、実行段階では努力の度合いしかない。自分の能力の限界だからと、残業に次ぐ残業をして、「それでも達成できませんでした」となるのだろう。しかし残業を禁ずれば、努力の方向はやり方の改善に向かう。
目標が達成できなくても、10億円の目標の80%達成とするか、最初から8億にして100%達成とよぶか。達成するには外的な条件も考慮して、それを予測する努力をするか、運を呼び込むのはどうするか、工夫の余地はあるだろう。75%なら未達成(ミタツ)と呼べばよい。
行政の計画や批判では、当事者があれは失敗だと反省するのは寡聞にして聞かない。ならばいっその事、『失敗ではない、ミタツだ』。
『失敗とはやるべきことをやらないことだ』という法律を通してはどうか。余りにいい加減な計画では困るが。もっとも野党とマスコミは、批判が難しくなるから猛反対するだろうが。
ミスマッチの原因は教育界だけか;親が障害になっていないか
何がしたいか、何が好きかハッキリしない学生に何を学ばせるかは難問である。世の中に何があるのか知らないから選べないのである。小学生の内から、大人の世界の職業について学び、『自分も何かをやりたい』と考えさせる必要がある。その意味で過保護な親と戦いながら、可能性を拡げる仕事を学校任せにすると、教師も批判のすくない楽な方向に流される。
何をやるかについては、取りあえずは目標とする大学を決めて目指すのも1つだ。だが入ってしまえば『何をやるために学ぶのか』という目標は欠けたまま、『とりあえず就職するためだ』と決め、必須科目だけで終る。そして何かを成し遂げる人は、それが好きで夢中になってやっているからだと気付く。『私は無理だよ』ではなく、『私もできる』と考える育て方が求められている。
大学をでて、1流企業に入り、どこかの部門に配属されて働く。しかし、私もそうだったが、『何をやりたいのか?』という1番大事なことは決めないで始めるのが日本の習慣ではないかと思う。
つまり目標がなく大学に入り、やりたいことは会社(人)任せで就職する。10年か20年で産業構造がかわり、社内や社外へ異動や転職する。本当にやりたいことはわからずに、人の決めたことをやっているに過ぎない。ある程度は自分のやりたいことを主張すれば、聞いてもらえるケースもあるが、大半はそうなっていない。
30代の後半になってから考えることなら、早くから考える方法もある。
独身寮の寄宿生活は、安価に知識を身につける面で自分も経験すれば良かった。できれば子供もそうしたらよい。バイトをしやすくして学力を低下させ、就活に力を入れるのでは、何のために大学なのか。
独身寮の寄宿生活は、安価に知識を身につける面で自分も経験すれば良かった。できれば子供もそうしたらよい。バイトをしやすくして学力を低下させ、就活に力を入れるのでは、何のために大学なのか。
持続力を忘れては勝ち続けられない
今は1流ではなくとも、『今に見よ』という気持ちさえあれば、ただ云われたことをやって満足とはならない。顧客の期待をこえ、競争する他社を超えるところまではと考える人たちがいる。成功か失敗かではなく、図面どおりというのを越えたいという領域が、成功にも失敗にもある。それは1流をめざす心があるかないかである。
能力と努力のほかに持続力が求められ、それを維持させるために1流を目指すのだ。日本人のそうした努力を、値段さえ安ければと後進国に丸投げしたのは欧米人で、それが今もどりつつある。当然である。1流を目指すより、安値でつくり手抜きで儲けをねらう考えに、自分も汚染され集団が劣化するからだ。
しかし、現実は得られるベストな人材が参加してチーム編成していると信じてスタートする。反省会ではそのチームのリーダーは、「ミタツは自分の責任であり、時間と訓練期間が足りなかった。次回があれば、早めにスタートしたい」と反省する。「チーム全体はよくやった。特にA君はキャンペーンで頑張った。」「B君は、必死で顧客訪問をした。」という具合に褒めて終るだろう。
自分の能力だけではミタツになる場合
『成功する人に共通しているのは、失敗の原因はなにかと考える際に能力と努力だと考えるか、外的な難易度・運に求めるかで違ってくる』という。これは本当だろうか。
失敗した場合は、自分の能力というより、努力不足であり、成功すればそれは周りの人のご支援と運である。自分の足りない能力の部分は、それをもっている人にその部分での参加と指導を頼めばよいのだ。
それを妨げるのは、手柄は自分が欲しくて、欲張って何でも自分でやろうとするから失敗するのだ。自分が責任者なら、誰を連れてきても成功させればよく、その「手柄は皆のモノ」で良いのだ。ここが日本国内と海外の違いではないか。
運の良し悪しは外的なものだけか
実際には何をするかと言えば、一生懸命にああでもない、こうでもないと考えて、周囲の人に相談し良い知恵を聞く。知識や経験のある人を訪ねて相談したりする内に、段々と熱意が伝わり、人は期待いじょうに支援してくれるものだ。それで自分の能力以上のことができる場合もあるし、自分も予想外のことを思いついたりするものだ。それがリーダーの仕事であり、各人は持ち場のベストを得られるよう、やや高めの目標を常に達成するように、毎日の仕事(練習)を励むことだろう。
リーダーになりたければその1部でも考えて、やれる実行力を習得するのだ。成功の目的は自分で決めることだが、金持ちになり大きな家に住むことで、チームの皆が集まる場所にするのもよい。成功をどうシェアするかは自由だ。
日本では『周りの人たちと一緒に成功したい』という強い絆をもつ声もあるが、欧米では責任者は誰かを決めて、その人が成功に持ってゆくように出来るだけ権限を持たせて、協力するのがチームという感覚である。自分たちだけより株主のことを考えればと思う。
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