議論の正当化は理論(理系)の世界だけでない(1)
(騙されやすい日本人の甘さの源泉)
洋の東西をとわず、理論の世界は苦手だと思う人が多い。シンプルに結論を先に述べれば、なりすましや詐欺に弱いのは、事実確認と論理の甘さにある。(14107の続き)
人は自分のやろうとすることで周囲の賛同をえなければ物事を進められない。それを正当化と呼ぼう。会社の仕事で、こういう仕事をしたいというのも正当化。予算をつけてくれというのも、増員の要求も正当化だ。グローバル時代は、それが世界に広がっているのだから、日本人の地元の論理だけでは、相手は納得できない。欧米人と議論するには、価格の交渉でも、数量による値引きをしろとか、契約書でも例外条項に入れるか否か、交渉では自分の主張を正当化せざるをえない。それが論理だ。
議論には幾つかの論理が使われるが、どういう論理が使われるか位は知っておいた方が役立つ。私見をまとめてみよう。(参考;『世界十五大哲学』大井正/寺沢恒信(PHP文庫)、『これから「正義」の話しをしよう』マイケル・サンデル他)
議論には幾つかの論理が使われるが、どういう論理が使われるか位は知っておいた方が役立つ。私見をまとめてみよう。(参考;『世界十五大哲学』大井正/寺沢恒信(PHP文庫)、『これから「正義」の話しをしよう』マイケル・サンデル他)
議論を進める方法は幾つかある
だいたい哲学、形而上学、唯物論、実在論とか権威をつけた翻訳をしたため分かりにくく避けたくなる。目的がはっきりせず、学生時代「こんな言葉の遊びをやっていられるか」と思った人も多いだろう。ところが、米国では哲学は1番大事なことを決める知識という考えがある。すこし乱暴だが、それを3、4人の論理に絞ってみる。
まず哲学を正当化論とよぶのでは、生命の価値や、生きる意義を避けた表現に聞こえご不満もあろうが、ここでは職業の面に絞って考えたい。行政が税金を使うにも、会社で投資をするにも、正当化は不可欠だし、論理がメチャであっても困るからだ。
まず哲学を正当化論とよぶのでは、生命の価値や、生きる意義を避けた表現に聞こえご不満もあろうが、ここでは職業の面に絞って考えたい。行政が税金を使うにも、会社で投資をするにも、正当化は不可欠だし、論理がメチャであっても困るからだ。
元々はギリシャの哲学者、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどがBC500~300年ころ創世期の考え方を示した。この時期のまとめ役はアリストテレスで、サンデル氏も「正義」で引用している。
バクッと大別すれば自然(科)学と人間社会(科)学に2分され、今の大学の理系と文系につながっている。数学は科学の基本の1つだが、あらゆる学科に使われている。自然派はモノの世界として捉える唯物論(materialism)になり、社会科学はイデア=観念論(Idealism)や実在論(Realism)につながっている。いまの日常語でいえば物質学、思考学、実用学とよべるだろう。
その後、ローマ帝国が欧州を制覇し法治が拡がったが、キリスト教の神による万物の創造が説かれた。科学の論理性と人間に内在する非論理部分との間で、思考の自由を妨げるのが宗教という考えが、教会の強力なパワーで科学が抑圧された時代が長かった。13世紀トマス・アクイナス(伊)はカソリックとアリストテレスを結びつけた学者だが、国や国家を認識したのは神だから従うべきと説いた。
これが和らいだのは、ガリレオの地動説が事実だと確認され、科学の世界は宗教とは別に見られ、ルネッサンスが始ったと考えられる。主なものは17世紀フランシス・ベーコン(英)がアリストテレスの3段論法・演繹法(induction method)に反対し帰納法(deduction method)を主張した。それを拡大させたのはデ・カルト(仏;Cartesian派の元祖)で、精神と物体の2元論を主張。
自然派でベーコンの帰納法をとるジョン・ロック(英)が、労働をもととする社会契約説(個人は自然法による権利と自由があり、それが守られる条件で国がある)に発展させ、近代国家の思想を考えた。
日本では野党で「国から人権を守るのが憲法です」と現在も使われる論拠はこの影響であろう。この議論は、その憲法は誰が作るのか、人権は誰に与えられたのかという根本に触れていないから、税金のばら撒き、あとは何でも反対というご都合主義の議論である。
カルテシアス派を始めたデ・カルトは「われ思う、故にわれあり」などと言った。
考える自分が、自分の存在の証明になると考えたのだ(神に創られたのではないと言いたかったかも知れぬが当時は教会が強力で怖かった)。
現在の実存主義の元だが、仏教の般若心経も大本だと思う。デカルトやロックより早く、宗教の影響を排除しようとした信長がいたが例外で仏教を学ばなかったのだろう。
日本では野党で「国から人権を守るのが憲法です」と現在も使われる論拠はこの影響であろう。この議論は、その憲法は誰が作るのか、人権は誰に与えられたのかという根本に触れていないから、税金のばら撒き、あとは何でも反対というご都合主義の議論である。
カルテシアス派を始めたデ・カルトは「われ思う、故にわれあり」などと言った。
考える自分が、自分の存在の証明になると考えたのだ(神に創られたのではないと言いたかったかも知れぬが当時は教会が強力で怖かった)。
現在の実存主義の元だが、仏教の般若心経も大本だと思う。デカルトやロックより早く、宗教の影響を排除しようとした信長がいたが例外で仏教を学ばなかったのだろう。
ものを大元まで考える欧米人に対し、「ややこしいのは金で済ませ、分からん奴は排除せよ」というのが、最近のアジア大国の風潮だと言えば言いすぎかも知れぬが。だからアジアでは賄賂や腐敗が減らないのだと思う。
正当化論を大別すると
自然科学;帰納法=実例から定義・ルールを考える。数学、理系、
社会科学;こちらも帰納法の影響が拡大している。法学でも英米法の判例主義になり、経済でも数学的な思考、データの分析で諸説が法則化されつつあるが、全体を予側するまでには纏まっていないようだ。自分だけ儲けようとする欲望と、イノベーションがあり、つまり経済の将来予測ははずれ勝ちにみえる。
人権をどう扱うかが課題である。宗教に関係なく、自然発生的に生まれて進化してきたと生物学てきに捉えれば、人間の欲=利益と物理的力、アジアの巨大人口国の考え。党派が支配する。イスラムでは宗教家が立法を支配する。いずれも擬似専制で腐敗しやすく、民衆搾取から脱し得ない。
人権は個人の生まれながら与えられたものとすれば、誰から?という神学論争になる。
そこで、神仏に与えられ、民衆の意に託されたというのが近代の民主主義、3権分立の手法で国民・市民=選挙で選ばれた者が法治することで収まっている。
論理をぼかす”事実”の変造
戦時と平時では適応される法律が違うから戦時の兵には平時の刑法は適用されない。中国の国民党と共産党の内戦(civil war)地域では戦った日本軍は戦争行為だったと言える筈だ。戦時中に内戦に巻き込まれたのだ。
どこの法律が誰に適用されるか、時期は極めて曖昧で、どこの法律に違反したのか。たぶん無法状態だったのだ。それを後から現在の法律があったかのようにいう。南京の”大虐殺“などは、その有無の前に、こうした言葉と状況の把握を誰がするかに操作がある。
今の国ができる前、併合されていた時期の半島住民の“強制労働””慰安婦問題“などもその類で、日本はこういう欧米人(ましてリーダー達)ならまず引っかけらない議論への反論の教育(倫理・分析哲学などとよばれる)を強化したほうがよい。
大部分が乞食同然の生活をしていた時期の人道などを文句をつけるのは、後付けの議論だと突っぱねるには、当時の生活レベルを事実として知っていた方がよい。(キム・ワンソプ『親日派のための弁明』はまともな内容だが、この書は昨日米国でもアマゾンで入手できた)
___________
(プラグマティズムのデューイやサルトル(実在論)、マルクス・ガブリエルは表示紙面の都合で省略)
労働者・階級の紛争や闘争は終ったか
成果の分配が合理的で納得できる形で、しかも景気の上下の波をしのぐ方法を開発できれば、階級闘争などは起らないといえるか、欲望を抑えうるかが課題として残るだろう。
むしろ近隣国や中東のイスラム諸国のように、社会の格付けが儒教的に温存されると、国内に持てるものと労働者の溝が消えることがないように見える。
そうした国は危うくなると考えて、対策を講じたほうが良いのではなかろうか。ということは、資本家対労働者階級という社会を2分する割り切りだけでは不十分だったと言えそうである。
言語分析、概念分析を中心的な道具とする
定義や議論の論理構造をはっきりさせ、できるだけ明瞭な論述を行うことを旨とする(記号論理学を応用する)
言語表現のレベルで問題を設定する
分析の正しさの基準として、しばしば思考実験に訴える
経験科学の知見を取り入れて議論を展開することも多い 帰納法を破る議論(ヘンベルのカラス)があるが、これは後述したい。 思考の比較だけでは不十分 人としてあるべき生き方という原点からは、ビッグ・データなどという行動予測の手法が使われはじめているが、それは動物としての人間の生態分析になり、民主主義と同様、単なる考えなしの頭数の集計にならないか。 あるべき生き方とは、武力で囲い込んだ物理的な人口(国民とよばれる)の数比べでもあるまいと思う。生物的な増殖力をくらべても、表現の自由なしでは、人レベル以下となり、住民の意思が表現されぬグループで人数ひかくは意味がない。最低限の殺し合いをしない条件と、人の金を使い赤字のつけを後世にのこす身勝手な合意体では低すぎるだろう。 現在はその是非をはなれ、ディジタルデータの囲い込み競争となり、データそのものが価値・市場という取り合いや、ハッカー攻撃などにさらされ、見えにくくなっており、ブロックチェーンで囲い込むようなことになりそうだ。 その意味で、正当化の道具としての論理は、価値と遊離してはなるまいと思う。
自然科学;帰納法=実例から定義・ルールを考える。数学、理系、
社会科学;こちらも帰納法の影響が拡大している。法学でも英米法の判例主義になり、経済でも数学的な思考、データの分析で諸説が法則化されつつあるが、全体を予側するまでには纏まっていないようだ。自分だけ儲けようとする欲望と、イノベーションがあり、つまり経済の将来予測ははずれ勝ちにみえる。
人権をどう扱うかが課題である。宗教に関係なく、自然発生的に生まれて進化してきたと生物学てきに捉えれば、人間の欲=利益と物理的力、アジアの巨大人口国の考え。党派が支配する。イスラムでは宗教家が立法を支配する。いずれも擬似専制で腐敗しやすく、民衆搾取から脱し得ない。
人権は個人の生まれながら与えられたものとすれば、誰から?という神学論争になる。
そこで、神仏に与えられ、民衆の意に託されたというのが近代の民主主義、3権分立の手法で国民・市民=選挙で選ばれた者が法治することで収まっている。
14111
正当化論は避けて通れない(2)
(14109の続き)
日本人が騙されやすい論理
正当化論は避けて通れない(2)
(14109の続き)
日本人が騙されやすい論理
ここまでに3段論法=演繹法と帰納法が主流2論法だと述べたが、宗教を別とすれば、頭で人や社会を考えた観念論派と、自然観察からモノを注目した唯物論があると言え、シンプルに1頁に纏めたものを参考までに次項に載せる。
3段論法はどんな分析でも使える。「AはB、BはC、だからAはC」というが、演繹法では先に説得できる「BはC」という定理やつなぎがあって、それに該当するかを考える。つなぎの「BはCである」が曲者だ。だましの専門の隣国人などを議論に入れると、”事実”そのものをずらすから、この段階で割って入り、話しをずらそうとするのはよく見る光景だ。3段論法より帰納法がよいのは、ごまかしが少ないのだ。
たとえば、「AはDNAをもつ」、「DNAは異変を起こしガン細胞ができCになる」、「AはCであるからガン細胞で死ぬ」という議論。
過去と現在のすり替えや、範囲の拡大や縮小のごまかしがある。
南京大虐殺、慰安婦、「強制労働の非人道行為」もおなじ手法である。いくつかのひねりがある。(更に議論を混乱させる気はないが、騙されやすい人のために、後述する)
論理をぼかす”事実”の変造
戦時と平時では適応される法律が違うから戦時の兵には平時の刑法は適用されない。中国の国民党と共産党の内戦(civil war)地域では戦った日本軍は戦争行為だったと言える筈だ。戦時中に内戦に巻き込まれたのだ。
どこの法律が誰に適用されるか、時期は極めて曖昧で、どこの法律に違反したのか。たぶん無法状態だったのだ。それを後から現在の法律があったかのようにいう。南京の”大虐殺“などは、その有無の前に、こうした言葉と状況の把握を誰がするかに操作がある。
中国内の内戦で何千万人が殺し合いで死んだ時期に、日本軍が人口30万人の南京市の全員を虐殺というのもおかしいと感じたのだろう。人は殺されるなら、逃げるから8割は逃げただろう。その後、数字を増やして非難を続けている。
(南京事件の"証拠”資料には60枚以上の写真が添付されていたが、それらは総て日本の別な出版物のコピーやその改変だと、最近の学者が証明したとYouTubeで報道された)
こういうアジア近隣国の詐術、言葉のごまかし、史実の捏造は、2500年の正当化の論理の発展史の中でみると、ガン細胞のようなものと考えて、摘出手術をしてゆかねば、全身が侵されると考える。
(南京事件の"証拠”資料には60枚以上の写真が添付されていたが、それらは総て日本の別な出版物のコピーやその改変だと、最近の学者が証明したとYouTubeで報道された)
こういうアジア近隣国の詐術、言葉のごまかし、史実の捏造は、2500年の正当化の論理の発展史の中でみると、ガン細胞のようなものと考えて、摘出手術をしてゆかねば、全身が侵されると考える。
今の国ができる前、併合されていた時期の半島住民の“強制労働””慰安婦問題“などもその類で、日本はこういう欧米人(ましてリーダー達)ならまず引っかけらない議論への反論の教育(倫理・分析哲学などとよばれる)を強化したほうがよい。
大部分が乞食同然の生活をしていた時期の人道などを文句をつけるのは、後付けの議論だと突っぱねるには、当時の生活レベルを事実として知っていた方がよい。(キム・ワンソプ『親日派のための弁明』はまともな内容だが、この書は昨日米国でもアマゾンで入手できた)
なお「オレオレ詐欺」(なりすまし=すり替え)は海外、特に米国などではありえない。金にからむことは、まず疑って裏をとる訓練があるからだ。集団自衛で、相手が撃つまでは反撃できないなどという近燐国の代理人のような議論を真面目にやった。
米人なら「貴方達は人権以前に市民の命を守る気があるのか」と強い民意が出る。命が先か人権が先かだが。
米人なら「貴方達は人権以前に市民の命を守る気があるのか」と強い民意が出る。命が先か人権が先かだが。
そこでまだ定理がない自然物はどう纏めるかと考えると、様々な事例を集めて、そこから共通項(条件)を絞る帰納法のほうが科学の主流になった。そして20世紀からは分析哲学といわれるものが用いられているが、これは論理の正確性を検証する。
マルクスの弁証法による階級闘争とその日本的克服
前後するがロックのあとドイツではカントの批判哲学、ヘーゲルの観念論が主流となった。米国の大学では教養学部と専門学科の間で「批判的な思考」という講座がある。多数の意見があるが、カントは批判哲学により、自己の存在を表している。ヘーゲルに関しては弁証法的な発展をするものとして人間と歴史を捉えており、マルクスに引き継がれている(dialectical materialism)。
ヘーゲルの弁証法は、産業革命の時代背景のなかで主張され、生産設備を持つ資本家と持たざる労働者の交換価値が労働だと、2階級に分けられた。その衝突を経ながら、正・反・合で社会は向上するという議論となり、貴族・ブルジョワと対立した労働者には共産主義思想が欧州では広まった。
だが日本では資本主義対労働者階級という衝突が、国を2分するような分裂にならなかった。国有企業の国鉄などがストになった位か。それはまず国土が狭く、対立する大きなグループを好まない、平時は女性的な温和な風土と、終身雇用+年功序列が導入され、企業別で行われたことにあった。下記の組合の分割はその例である(注)。
2つの大戦のあと、国有企業の業務の民営化や私企業の発達により、株式が公開されると、理論上はだれもが資本家になりうる環境ができた。
2つの大戦のあと、国有企業の業務の民営化や私企業の発達により、株式が公開されると、理論上はだれもが資本家になりうる環境ができた。
誰もが株主になれる国と、殆どが国有企業の国とでは同じ条件での貿易は長続きできないはずだ。自社の利益のために判断する国と、相手国を不利にさせる判断とは別な判断や優先順位があるからだ。破局は国際規模でおこる可能性を残している。TPPでの交渉が壁にぶつかるとしたら、この違いがあるのだろう。
長くなるので続きは来週にも(3)を後述したい。
(注;戦後日本史(連載第15回)その手始めは1986年の解散総選挙であった。この時、中曽根は憲法違反の疑いも指摘された衆参同日選に踏み切り、自民党を衆議院で300議席を獲得する圧勝に導いた。対する社会党はわずか85議席の歴史的大敗であった。こうして成立した巨大与党の力で、中曽根政権は国鉄の実質的な解体を意味する分割民営化を政権最後の大仕事として推進し、やり遂げた。
その効果は絶大であった。中曽根政権が退陣した2年後の89年には、総評と民社党系の全日本労働総同盟(同盟)などが合流して日本労働組合総連合会(連合そ)に再編された。この戦後労働運動史上画期的な出来事は、(略)実際のところは国鉄労組に代表されたような戦闘的な労使対決型労組から旧同盟のような労使協調型労組への歴史的な転換を意味した。スト権を自ら凍結してしまう「物言わぬ労組」の始まりである。(ウイキペディア)
(注;戦後日本史(連載第15回)その手始めは1986年の解散総選挙であった。この時、中曽根は憲法違反の疑いも指摘された衆参同日選に踏み切り、自民党を衆議院で300議席を獲得する圧勝に導いた。対する社会党はわずか85議席の歴史的大敗であった。こうして成立した巨大与党の力で、中曽根政権は国鉄の実質的な解体を意味する分割民営化を政権最後の大仕事として推進し、やり遂げた。
その効果は絶大であった。中曽根政権が退陣した2年後の89年には、総評と民社党系の全日本労働総同盟(同盟)などが合流して日本労働組合総連合会(連合そ)に再編された。この戦後労働運動史上画期的な出来事は、(略)実際のところは国鉄労組に代表されたような戦闘的な労使対決型労組から旧同盟のような労使協調型労組への歴史的な転換を意味した。スト権を自ら凍結してしまう「物言わぬ労組」の始まりである。(ウイキペディア)
正当化は理論(理系)の世界だけでない(3)
(日本人の甘さのみなもと;14107~09、12に続き)
マルクスが指摘した「持てる者」である資本家が、労働者を下働きに扱う不平等な点については、米国では対等な契約関係のサービス業(者)として発達してきている。命令・服従ではなく対等でなければ、相応の責任も持たせられないからだが。
ファーストフッド、医療、介護、メード、炊事、洗濯、掃除婦、などの作業の多くがチェーン展開され、(昔なら貴族だけが得られた生活が、自宅でお抱えの専属ではないものの)有料サービスとして誰にも得られ、外注できる時代になっている。
ファーストフッド、医療、介護、メード、炊事、洗濯、掃除婦、などの作業の多くがチェーン展開され、(昔なら貴族だけが得られた生活が、自宅でお抱えの専属ではないものの)有料サービスとして誰にも得られ、外注できる時代になっている。
先述した正当化の理論家を、編者の独断で大巾にシンプルに1覧にしてみた。
代表的正当化理論(哲学)の主要プレーヤー
哲学者
|
経緯
|
自然科学との協調
|
目立った成果
|
特徴
|
効果
|
ソクラテス(ギ)
BC469-399 |
ギリシャ学創設者
|
善;
勇気・正義・節度・敬虔 |
辻説法;知行合一論
|
(賢人・変人)
| |
プラトン(ギ)
BC427-327 |
イデア論(形)
国家論;統治者、補助者(兵)、生産者 |
国と法体系
| |||
アリストテレス(ギ)
BC384-322 |
ソクラテス、プラトンに学び集大成
|
哲学が総ての上位、原理から枝葉への順位、
|
演繹法(induction)
分析は3段論法、論理に帰納法もあり、帰納の利点も承知 |
普遍から分析
統治には帰納法の効果を認めた
| |
トマス・アクイナス(伊)
1225-1274 |
カトリック最大の学者
|
アリストテレスとカソリックの結合
|
存在論;神による創生
感覚は理性に従属 |
神が国・家族を認識したから、人はこれに従うべし
|
キリスト哲学の体系付けにギリシ
ャ哲学を利用 |
フランシス・
ベーコン(英)
1561-1626 |
キリスト教の脅威から保身
|
帰納法(deduction )の観察と実験
演繹法に反対 |
われ思う、故に我あり
| ||
ルネ・デ・カルト
R.DesCartes(仏)
Cartesian派
1596-1650 |
キリスト教の圧力の中、自然科学論理を解放
|
地動説に合致した理論の集大成
|
力学的自然観
2元論;精神と物体
|
真実を知りたければ疑え。
人は平等に生まれた |
自然科学的論理
|
ジョン・ロックJohn Locke(英)
1631-1704 |
英国の自由主義の元祖、
|
自然科学を学びベーコンの帰納法をとる
|
社会契約説は私有財産起源論から。労働が根源
自然法;自由・平等+他人の権利は不可侵 |
生まれた時は白紙と、デカルトの生得
内省と反省観念に反対 |
人権の基礎として自然法と反抗権を位置づけた。民
主 |
イマニュエル
カントI.Kant1724-1804 |
ドイツ哲学の代表
|
批判哲学による観念論
| |||
W.ヘーゲルHegel (独)
1770-1831 |
同上
|
観念論;
弁証法;正・反・合による改善 |
ドイツ哲学の纏め
| ||
セーレン・
キルケゴール(デ)1813-1855 |
孤独な思想家
|
独の植民地的なヘーゲル1色の地で育つ
|
階級闘争でブルジョアを克服
| ||
カール・マルクス+F.エンゲルス(独)
1818-1883
|
ドイツから英国に
|
ヘーゲルを継ぎ弁証法
を完成 |
所有対非所有者、
共産党革命
|
資本論で世界に
影響 | |
バートランド
・ラッセル他 |
他多数
|
分析哲学
|
体系はない
|
論理性の分析
|
___________
(プラグマティズムのデューイやサルトル(実在論)、マルクス・ガブリエルは表示紙面の都合で省略)
労働者・階級の紛争や闘争は終ったか
製造業では、統計学・品質管理のデミング氏の推奨で、主だった企業から品質管理のレベルを高め、今やTQC は工業国の標準になっている。Plan・Do・Check・Improveだが、これはヘーゲルの正・反・合を改善し、工場に持ち込んだとも言えないか。
成果の分配が合理的で納得できる形で、しかも景気の上下の波をしのぐ方法を開発できれば、階級闘争などは起らないといえるか、欲望を抑えうるかが課題として残るだろう。
むしろ近隣国や中東のイスラム諸国のように、社会の格付けが儒教的に温存されると、国内に持てるものと労働者の溝が消えることがないように見える。
そうした国は危うくなると考えて、対策を講じたほうが良いのではなかろうか。ということは、資本家対労働者階級という社会を2分する割り切りだけでは不十分だったと言えそうである。
分析哲学の概略(編者が大幅に省略)
言葉にこだわるが分析哲学という呼び名、「思考分析学」ではいかがか。
詳しくは思考分析学。
1つのまとまった、1枚岩の哲学は存在しないが、概ね次のように特徴付けることができるだろう。諸命題の論理形式の分析で達成できるほとんど唯一のことで、命題を表現する方法であり、日常言語をどのように論理的に分析するのかについての、分析哲学者の間での見解の一致はない。
詳しくは思考分析学。
1つのまとまった、1枚岩の哲学は存在しないが、概ね次のように特徴付けることができるだろう。諸命題の論理形式の分析で達成できるほとんど唯一のことで、命題を表現する方法であり、日常言語をどのように論理的に分析するのかについての、分析哲学者の間での見解の一致はない。
(要するに)難しい表現はさけ日常言語や常識を擁護する。特に日本では、難しい翻訳の問題の是正に貢献している面もある。
正当化論の行き着く終着点
後述するハーバード大学のクリステンセン(2020年1月逝去)教授のいう産業分析でモジュラー化が進めば、結局は数学を用いた学科ごとの論理になる。
それを纏めるためには、総ての学科・産業の総括できる論理には、人間の欲望という主観的・非論理な要素の計量化が加わらなければ完成しない。(暫くは欲望は需要と捉えビッグデータで代用し、人間の動向を学ぶことになるだろうが、性欲や支配欲などは、生い立ちなどでも左右されるとみれば、どう扱うかである)
人知では纏まらず、神仏の存在、地球という可変物体の存続条件、あるいは“共有できる未来“が不可欠になると考える。人間だけの勝手な"人権”ではなく、不可欠な資源、生きるもの総てとの共存を考慮する新たな価値であり、人はそこまで進化せねばならないと考える。
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