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『論理的でなくてビジネスができるか?
自分を論理的だと思っている人へ/論理的思考は魔法の杖ではないって話』を読んで(http://www.huffingtonpost.jp/news /komyunikeshonnoryoku/)
そこで今回は、論理的思考へのよくある誤解を4つ取り上げたい。論理的思考に何ができて、何ができないのか、一度ハッキリさせておこう。
1.「論理的である」とは「遠慮がない」という意味ではない。
どういうわけか、「気を遣わないこと」を「論理的だ」と思っている人はとても多い。 感情面に配慮せずに議論することを「論理的な議論」だと信じている人には、なんというか、もう、げんなりさせられる。
言うまでもなく、論理的であることと、他人の感情に配慮することは、対立概念ではない。論理的に事実の分析を積み重ねながら、同時に他人の感情に配慮することも可能だ。論理的思考と感情的配慮は両立できる。
ただし、極端に論理的でありながら感情面にも気が回る「ほんとうに頭脳明晰な人」は、とても希少だ。(略)
どういうわけか、「気を遣わないこと」を「論理的だ」と思っている人はとても多い。 感情面に配慮せずに議論することを「論理的な議論」だと信じている人には、なんというか、もう、げんなりさせられる。
言うまでもなく、論理的であることと、他人の感情に配慮することは、対立概念ではない。論理的に事実の分析を積み重ねながら、同時に他人の感情に配慮することも可能だ。論理的思考と感情的配慮は両立できる。
ただし、極端に論理的でありながら感情面にも気が回る「ほんとうに頭脳明晰な人」は、とても希少だ。(略)
2.論理的思考力は、物事を単純化して考える力ではない。
三段論法は論理的思考の入り口だ。AならばB、BならばC。したがってAならばC……というアレだ。しかし現実の問題はA、B、Cのたった3つの要素に分解できるほど単純ではない。例外と確率的要素に満ちている。(略)
ところが世の中には、論理的思考=三段論法だと思っている人が珍しくない。複雑な事象をそのままでは扱えず、カリカチュアライズしなければ理解できない人が驚くほど多い。
現実は複雑だ。例外はいつでもある。結果を確率的にしか予想できない場合もある。(略)
三段論法は論理的思考の入り口だ。AならばB、BならばC。したがってAならばC……というアレだ。しかし現実の問題はA、B、Cのたった3つの要素に分解できるほど単純ではない。例外と確率的要素に満ちている。(略)
ところが世の中には、論理的思考=三段論法だと思っている人が珍しくない。複雑な事象をそのままでは扱えず、カリカチュアライズしなければ理解できない人が驚くほど多い。
現実は複雑だ。例外はいつでもある。結果を確率的にしか予想できない場合もある。(略)
3.論理的思考力とコミュニケーション能力は違う。
おそらく自己啓発系の書籍やセミナーでは、「論理的なプレゼンをしましょう」「商談では論理的思考が役立ちます」と繰り返されているのだろう。これらの主張は、おそらく事実だ。論理的思考力がある人は、プレゼンも交渉もそつなくこなせるだろう。しかし論理的思考力は、プレゼン能力や交渉力――広義のコミュニケーション能力ではない。
論理的思考力を、プレゼン能力・交渉力と混用している人は多い。下手くそなプレゼンを見たときに「あいつは論理的思考が弱い」と笑い、商談に失敗した部下に「論理的思考を磨け」と叱咤する。(略)
4.論理的思考を身につけても、仕事が早くなるとは限らない。
おそらく自己啓発系の書籍やセミナーでは、「論理的なプレゼンをしましょう」「商談では論理的思考が役立ちます」と繰り返されているのだろう。これらの主張は、おそらく事実だ。論理的思考力がある人は、プレゼンも交渉もそつなくこなせるだろう。しかし論理的思考力は、プレゼン能力や交渉力――広義のコミュニケーション能力ではない。
論理的思考力を、プレゼン能力・交渉力と混用している人は多い。下手くそなプレゼンを見たときに「あいつは論理的思考が弱い」と笑い、商談に失敗した部下に「論理的思考を磨け」と叱咤する。(略)
4.論理的思考を身につけても、仕事が早くなるとは限らない。
「ロジカルな人間を集めれば仕事がスピーディーに進む」というのは誤解だ。論理性を重視する人間を集めたら、話はなかなか前に進まず、仕事はむしろ遅くなる。仕事をすばやく進められるのは、同僚がロジカルなのではなく、ただ、あなたと気が合うだけだ。
論理性を重視する人間は、たとえば言葉の定義にこだわる。(略)
なぜ定量化・一般化を求めるのかといえば、論理的な人間は自分を信用していないからだ。自分の「感性」よりも、論理を信じているからだ。「この広告はイマイチですね」という意見が全会一致だとしても、会議室のメンバーにとってイマイチなのか、顧客にとってイマイチなのか、多数決では区別できない。
論理的な厳密さを求めれば、会議は遅々として進まなくなる。作業は正確になるかもしれないが、どこまでも遅くなる。そして時間という最も重要なリソースを失ってしまう。論理的な人間を集めれば仕事が早く終わるというのは幻想だ。
論理性は、意思決定の「正確さ」「緻密さ」を左右するものであって、「速さ」にはあまり効果がない。
論理性を重視する人間は、たとえば言葉の定義にこだわる。(略)
なぜ定量化・一般化を求めるのかといえば、論理的な人間は自分を信用していないからだ。自分の「感性」よりも、論理を信じているからだ。「この広告はイマイチですね」という意見が全会一致だとしても、会議室のメンバーにとってイマイチなのか、顧客にとってイマイチなのか、多数決では区別できない。
論理的な厳密さを求めれば、会議は遅々として進まなくなる。作業は正確になるかもしれないが、どこまでも遅くなる。そして時間という最も重要なリソースを失ってしまう。論理的な人間を集めれば仕事が早く終わるというのは幻想だ。
論理性は、意思決定の「正確さ」「緻密さ」を左右するものであって、「速さ」にはあまり効果がない。
論理的であるとは、遠慮がないという意味ではない。ものごとを単純化して考える方法でもない。論理的思考とコミュニケーション能力は違うし、ロジカルな人を集めても仕事が早く進むとは限らない。論理的思考は、万能な魔法の杖ではない。
論理的思考を身につけなくていいと言いたいわけではない。論理的思考は万能ではないが、有用だ。むしろ、できないことがたくさんあると理解したうえで、ほんとうの論理性を磨くべきだと私は思う。
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