2015年1月15日木曜日

15175 アジアの平和と日本の謝罪

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アジアの平和と日本の謝罪

隣国は中国の露払いのように、日本の首相に慰安婦問題に関し、従来の捏造の著書や記事・記録が明るみになった後も、従来どおりの談話を要求している。
終戦70周年を迎える日本はこの節目にどんな談話をするかのまえに、過去10年の周辺国のアジアでの行動が大きく変わって攻撃的になっている。その点から、従来の談話を踏襲することはありえないと予想する。70回忌墓参りの前に夜盗物取りが押しかけているのだ。

鄧小平の「韜光養晦」(準備ができるまでは、姿勢を低くして経済を伸ばせ)の政策時期は終わったとする活動は、2007年の太平洋を米中で管理する2分論に現れ、周辺国との領土紛争は激化している詳しくは末尾に高原明生氏(東京大学院教授)提言研究の1部を引用を参照 頂きたい。(http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Seisaku/1106_eastasia.html)

米ウオールストリート紙ではこの時期に、何度も謝罪はしてきたので、謝罪では解決しないばかりか、国内の右翼台頭の面で危険だという指摘がある
この記事は注目に値すると考え引用させていただく。

『戦後70年、日本が謝罪しても東アジア情勢は改善せず   

WSJ;By ANDREW BROWNE2015 1 14 11:12 JSTAgence France-Presse/Getty Imagesひざまずき最大限謝罪したドイツ大統領 (フォント・着色は編者)

 第2次世界大戦の終戦から70年を迎える今年、「懺悔(ざんげ)のモデル」のドイツのように振る舞うよう日本に求める声が一段と高まる公算が大きい。ドイツほど深い悔恨を鮮明にした国はかつてない。史上最も破壊的な戦争のあと、ドイツは苦しみながら自己反省して謝罪した。それが再び平和が脅かされるとの恐怖を沈静化させる一助となった。安心した欧州は、和解が可能になった。

 これとは対照的に、日本が戦争という過去を振り返るとき謝罪していると感じられないことが多い。これが、日本の軍国主義によって辛酸をなめた中国と韓国との関係が依然としてとげとげしい理由だとされている。また、尖閣諸島(中国名は釣魚島)をめぐる日中両国の緊張の高まりが武力衝突につながるのではないかとの現実的な懸念にもつながっている

 日本はきっぱりと全面謝罪すべきだとの議論がある。東アジアの緊張緩和のためだというのだ。そして東アジア地域の政治家、学者、そして戦争犠牲者のグループの間では、安倍晋三首相が日本の降伏70周年の8月に何を言うかに既に期待が高まっている。
そんな簡単な話ならどんなに良いことか。
 だが第一に、日本がこれまで公式の謝罪を出し惜しみしてきたというのは事実ではない。     日本が戦時中の自らの苦しみにひたる傾向があると批判することはできる。同様に、学校の教科書で戦時中の旧日本軍の残虐行為を過小評価する一方、広く行われた奴隷労働、南京大虐殺、そして旧日本軍のために性奴隷とされた「慰安婦」の強制徴用といった諸事実を公的な立場にある人々が声高に否定していることも批判できる。
 しかし日本の指導者たちが謝罪しないと非難することはできない。この数十年間、彼らは繰り返し謝罪してきたからだ。
 例えば1991年、当時の宮沢喜一首相はアジア太平洋で日本が与えた「耐え難い苦しみと悲しみ」に許しを請うた。また降伏50年目の1995年に当時の村山富市首相は植民地支配と侵略について「痛切な反省の意」を表し、「心からのおわび」を表明した。
 だが、日本の指導者で、ドイツ(当時西独)のウィリー・ブラント首相が1970年にワルシャワ・ゲットー蜂起の記念碑前でひざまずいた象徴的な行動に匹敵することを行った人は皆無だ。2001年に当時の小泉純一郎首相が韓国で花輪をささげ、植民地支配を謝罪したぐらいだ。
 第二に、安倍首相が本格的に謝罪するとしても、それが大いに役立つかどうか全く明白ではない。それはかえって事態を悪化させるかもしれない。
 「謝罪する国々:国際政治における謝罪(Sorry States: Apologies in International Politics)」の著者ジェニファー・リンド氏は、謝罪は和解のために必要であるとの広く浸透した考えに異議を唱える。同氏は、ドイツとフランスは、ドイツが実際にナチの残虐行為を償い始める以前ですら仲直りしていたと指摘している。一世代(20-30年)という年月が必要ではあったが。
 加えて、謝罪は政治的にリスキーだ、とリンド氏は言う。それは謝罪する国において反発を引き起こしかねないからそれこそ日本で起こっていることだ。日本では、公式謝罪は右翼のナショナリストやその他の過激主義者から否定の声が一斉に出てくる引き金になっており、謝罪に込められた誠意を台無しにしている。
 安倍首相につきまとう問題は、同首相がこの種の人物を重要なポジションに任命してきたことだ。それが、安倍氏の真意がどこにあるのかという疑念が持ち上がるきっかけになっている。安倍首相は2013年、A級戦犯が他の戦没者とともに合祀(ごうし)されている靖国神社を参拝し、同首相を批判する陣営に攻撃材料を提供した。それが中国と韓国をして安倍氏は悔い改めない軍国主義者とのレッテルを貼らせることになったのだ。
 これは厄介な事態だ。もっと謝罪をしても、それは東アジアにおける真の問題を解決しないだろう。歴史をめぐる議論は、同地域の政治家たちによってそれぞれの国内目標のために利用されているのだ。
 歴史論議は、この地域では競合するナショナリスト的なアジェンダ(目標)をあおる。それらは領土紛争をかき立て、実際的な外交上の解決を排除してしまう。
 中国では、反日感情がレジーム(体制)を支える不可欠なつえと化した。日本を悔い改めない悪漢として描くことは、中国の軍事的増強を正当化する一助になっている。
 同じように、日本では多くの人々が中国の経済的な興隆を日本の存立を脅かす脅威としてみるようになった。有権者にとっての安倍氏の魅力は、少なくとも部分的には、同氏が日本の強力な隣国である中国に対峙(たいじ)してくれるだろうという期待があるためだ。安倍氏をひざまずかせれば、北京とソウルでは万事うまく行くだろうが、東京では恐ろしいことになるだろう。
 世界のどこでも真の和解にこぎつけるのは極めて難しい。このため、政治家は追い込まれなければ和解しようとしないのが常だ。そこでは共通の脅威の存在が役に立つ。欧州ではそうだった。つまり、冷戦への対応という至上命題が欧州(西欧)の和解を促したのだ。
 しかし、残念ながら、東アジアにおける政治的な力は、おおむね正反対の方向に作用している。一層の敵意という方向だ。
 そこで、安倍氏は815日の終戦70年にあたり何を言うべきだろうか。安倍氏は「先の大戦への反省、戦後の平和国家としての歩み、今後アジア太平洋地域や世界にどのような貢献を果たしていくのか」を新たな談話に書き込むことを約束した。同氏はまた、これまで(歴代政権)の公式謝罪から後退させるつもりはないことを強調した。
 これらはすべて、世界的なステーツマン(政治家)としての安倍氏の立ち位置を改善するのに不可欠だ。しかし、安倍氏が何を言おうと、日本の近隣2国(中国と韓国)をなだめられる公算は小さい。リンド氏は「魔法の言葉」というものはないと述べ、「それでも、中国は不満だろう」と語った。                                                        たとえ日本がドイツをモデルとし、アジアにおける第2次世界大戦の傷を癒やそうとした場合でも、問題は、中国と韓国がその後、「赦(ゆる)しのモデル」であるフランスのように行動するかどうかなのだ。』
ならば、その後の許しの行動をどうとるか、事前に示せるかを第3国か国連が要求してみてはどうか。
高原明生(東京大学院教授)政策提言研究;「韜光養晦」を超越する時が来たという主張も強くなってきた。実は2009年7月の在外使節会議(大使会議)において、胡錦濤はすでに方針の一部修正を発表している。すなわち、「韜光養晦、有所作為」に四文字を足して、「堅持韜光養晦、積極有所作為」を新外交方針とした。一見すると玉虫色の修正であるが、力点は「為すべきを為し、業績を上げる」ことを「積極」化するところにあった。
同時に発表された外交上の戦略目標は、政治の影響力、経済の競争力、イメージの親和力、道義の感化力を強めることであった。また、周辺の地政学的戦略拠点を築く活動を充実、強化せよという指示も出され、恐らくはそれに基づいて09年後半からの北朝鮮支援の梃入れが行われたものと思われる。

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