2015年1月13日火曜日

15169 『表現の自由』でテロ防衛は容易ではない

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『表現の自由』でテロ防衛は容易ではない
表現の自由はスカートの長さだといわれたら?


正月早々の1月9日、EUの中心部パリでテロ事件がおこり、真昼間に新聞社で11名が暗殺された。力で人の発言や思考を止めようとする考えには、心から遺憾の意を表したい。
フランスは永い民主主義の伝統と『自由、平等、博愛』を価値とするが、この価値観に対し、私は深く賛同している。

と同時に『表現の自由が』が確立されるまでは、幾度も血を流した欧州の歴史をみると、反対した人達にもそれなりの歴史や、理由があったことは認めざるをえない。長い目で見てこうした暴力をとめるのは、易しい事ではない。イスラム教徒は、崇拝する預言者を漫画でからかわれるのに慣れていないし、それを怒りに変え復讐のためという理由で行動にでたといわれる。
(行動を訓練したのはアラビア半島の南端のイエメンで、ここは爆弾テロや体内爆弾などの常連国で、テロ行為のトレーニングを行うことも分かっている。)

イスラム教徒は女性が家庭に入り、屋外では働かなければ問題はないが、先進国では社会の活動が、顔をみせるという条件で成り立っている。それを条件とすることは信教の自由に反するか否かでは、反しないとする他なく、入れても絶対に緩められない原則とすべきである。なぜなら国外の宗教機関が、更なる要求を指導する可能性もあるからだ。
移民として国内に入れるなという宗教的な差別は、先進国では違法になる問題がある(筈である)。宗教的な理由で女性の顔や手足をヒジャブという布で隠す慣習は2次的なものだから目の周りまでは隠さないで自由とする国もある。

(私見を述べれば、イスラムの問題は、少ない例外を除けば、その宗教上のトップが政治のトップより上という教えと理解しており、これは民主主義とは相容れないからである。中国も党のトップが同様の地位にあり、今後問題が拡大する可能性がある。)

表現の自由の限界はあるか

彼らイスラム教徒からみれば、日本人は殆どがイスラム教徒はいないから、こちらは自由だが、旅行者が入ってくるなら良いが、帰らぬという人はどう扱うか簡単ではない。イスラムでは火葬ができないという点が問題だと聞いたことがある。

射殺されたイスラム教徒はアルジェリア出身者といわれ、フランスで就職や生活面で差別を受けたのだろうと言われる。襲撃された出版社は宗教指導者はイスラムと限らず皮肉や笑いの対象にするといわれ、大統領が表現の自由と『テロとの戦争』という言葉も使うなど危険な動きになっている。イスラム教のヒジャブをまとう女性が抗議に参加しているのを見て、フランス法を遵守する教徒もいるのを知り、教育のレベルによるのだろうがと、ホッとした

何れにせよ、表現の自由がどこまで許されるべきかは、民主主義の根幹をゆるがす問題だ。『自由か死か』と戦って勝ち得た人々は、これを制限することは許せないのは、EUの英独仏指導者がパリで街頭を腕をくんで歩くデモ行進に参加し、またフランスだけでも300万人を超えるデモが行われたことから見ても明らかだ。
宗教戦争でないと明言したが、同時にユダヤ人のスーパーが襲われていることから、テロ側とEUがどう融和を確立できるか注目される。EUを1国と見立てる域内の国境も人の流れに歯止めはかかるだろうし、EUの東方への拡大にもブレーキがかかるだろう。

スカートの長さや肉体の露出度は何の表現か

米国でも50年前の映画をみれば分かるのは、スカートの長さがどんどん短くなっていることだ。
女子生徒のスカートをヒザより上まで変更したのはいつか、その理由はなにか、これは年寄りの私には余り関心が無いので、若い人に譲りたい。
しかし、水着が1枚ものだった1920年代から、トップとボトムが2ピースになったのは、そう昔のことではなく、日本では自民党の体制ができたころらしい。トップの中にブラジャーまで着ていたというから、女性であることは1仕事だ。

それをさておき、創立が昭和元年を超えるわがゴルフクラブでは、襟付きであること、ジーンズやスニーカーの着用を禁じ、タンクトップも認めない。男性でも半ズボンはヒザまであるバーミューダだとルールがある。表現の自由かというと、人間としての控えめ度とか難しい議論になる。
クラブの場合は1定の価値観や条件を共有することを条件にしている合法な組織であるから仕方がないが、それを拡大して国までそうなったものがあっても良いではないかという意見もありうる。この辺が難しいのだ。それを理由にお互いに殺し合いまでする憎悪になるのは、別の理由があると考えざるをえないのだが、若い人達はどう考えるのか。

地球温暖化のいまでも、どう考えても優先順位は生命の価値>表現の自由>露出度ではないか。第1、Golfという言葉の由来は、「紳士のみ、淑女禁止」の英語のかしら文字から始まったクラブから始まったというではないか。まあ、紳士も淑女もいなくなったと言われると絶句かもしれぬ。

半島人との融和

アルジェリア人とフランス人との間では、1830年から100年の植民地、1954年から62年のアルジェリア独立戦争の抗争があったことと比較して、国際社会に訴えた点では半島も似ている。   だが捏造による日本人著作の”強制”による”慰安婦”を基にした点では、それを推進した朝日新聞が、その事実無根を否定したいまは、残してきた莫大なインフラ投資の未払い、にも係わらずゆすり・タカリで支払った金銭の補償などの後味の悪さが残る。
殊に戦争もなかった日韓では根本が違い、いま融和や和解をする意味は少ないと考える。

アルジェリアの歴史は、フランス人の視点で書かれたという下記を紹介するに留めたい。 
『アルジェリア戦争─ フランスの植民地支配と民族の解放』
独立50周年を迎える脱植民地化までの歴史を概説

評者:中村 遥(上智大学大学院)

 本書は、フランス側の視点から書かれたアルジェリア戦争の歴史である。アルジェリ ア戦争は、1954年から1962年の8年に及んだ。この戦争はアルジェリア、フランスどち らの視点から描くかで、異なる様相を呈してくる。筆者があえて「フランス側の視点」(ま えがき)としているのはそのためである。
 アルジェリアは1830年にフランスの植民地となった。1871年にはフランス本国の延長 として内務省の管轄に組み込まれ、フランス人入植者の人口は100万人を超えた。この点 において、アルジェリアはフランス最大の植民地であったと言ってよい。
 そのアルジェリアにおいて独立戦争が起こったのは1954年である。軍事的に劣位にあっ たアルジェリア側はゲリラ戦から始め、やがて国際世論に訴える戦法をとり、フランスに 対抗する。一方のフランスは、当初は「フランスのアルジェリア」の維持を望んだが、次 第に戦争は泥沼化し、ド=ゴール政権のもとアルジェリアの独立を承認するに至る。この 過程において、アルジェリア維持を望むフランス人たちがアルジェリア独立容認派と対立 し、フランスは内戦に近い状態となる。アルジェリア独立戦争は、フランス対アルジェリ ア、そしてフランス対フランスという二つの対立を含んでいた。
 本書は、植民地時代から始まり、第四共和政、ド=ゴールに至るまでのフランス政治史 とアルジェリア戦争を丁寧に描いている。また戦争の過程においては、フランス対アルジ ェリア、そしてフランス対フランスという二つの対立を明確にしながら戦争の経過を明ら かにしている。著者の姿勢は冷静で、淡々と独立戦争を語る。そこにフランス・アルジェ リア双方の残虐行為の生々しさが表れることはない。
 同時に著者は、随所においてアルジェリア側の動向も盛り込んでいる。独立戦争過程に おけるアルジェリアの内部抗争への言及や、犠牲者数は、アルジェリア・フランス側双方 に依拠した複数のデータを掲載している。他にもアルジェリア人でありながらフランス軍 に協力したハルキと呼ばれる人々、フランス本国と対立したアルジェリアのフランス人、 アルジェリアを支持したフランス人たちの様子も描かれる。こうした歴史の主体の多様さ や複数の視点を提示していることによって、アルジェリア独立戦争の複雑さが立体的に描 写される。
 この本の構成は第九章からなる。この構成は大きく三つに分けることができる。第一章 から第三章までは、植民地時代から始まり、アルジェリア独立戦争が起こった原因につい て検討している。第四章から第八章はアルジェリアの武装蜂起とそれに対する本国政府の 反応、そしてド=ゴールのアルジェリア政策と和平交渉の経緯について述べる。最後の第 九章で独立まで至った戦争の総括と、その結果と影響について言及している。
 また本書は、独立戦争後フランスに渡った大量のハルキ、ピエ・ノワールなどの引き揚 げ者、現在に通じる移民問題に対する意識も読者に向けて用意しているといえるだろう。 事情は異なっても旧宗主国である日本にとってこれは決して他人ごとではない。日本も植 民地支配をめぐり、韓国・中国と本当の和解ができているとはいえない状況におかれてい る。植民地支配の過去をめぐり、教科書問題、靖国参拝、慰安婦像建設のニュースが記憶 に新しい。
 これは細やかで誠実に描かれたアルジェリア戦争の歴史である。本書はアルジェリアへ の理解にもつながるであろうし、現在のフランスが抱える問題について考える発露ともな ろう。しかし、日本の読者が本書を読むとき、その後に日本の植民地の問題について考え をめぐらせてほしいと思う。日本でもアルジェリアでも経験が「過去」になりつつある。 「戦争は終わったのだろうか」(第九章III節)、この問いかけは経験と過去の狭間にある 現在において重い意味を持つ。



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