2014年5月14日水曜日

14094 何を売りものにして稼ぎますか(新しい価値)

14094

貴方は何を売りものにして稼ぎますか(新しい価値)

個人としては何を売り物にして稼ぐか、その集合が会社だし、自治体だ。では国はそれらの経済活動するグループの売上げ利益のピンハネ(言葉は不適当だが)でやってゆけるのか。
ウクライナが揺れているが、再び冷戦時代に戻りつつあるのか。価値観とかいうと抽象的で難しそうだが、意外にだいじなことなので14088で述べた続きを加えたい。

インターネットのデジタル時代になったら、ストが減った?

マルクスというユダヤ系ドイツ人は労働が価値のもと、労働の対価が賃金だと言った。労働という商品を安く買いたい資本家と、高く売りたい労働者は利益があい反するから、労働者は組合を作って団結せよというのが共産党のプロパガンダになった。日本も80年代までは労使2分され、労働者側が社会党ほか左派、組合をつくり数の力で賃上げストを連発し、企業別組合とそのグループでは、雇用条件を改善してきた。ここまでは実際に多くの大手企業で起ったことである。

労働者も中産階級になってくると、会社の株式を買える人も増える。日本のように職種別ではなく会社別の組合、しかも年功序列で給与も上がり競争を細分化する制度でも、労働者が株式を買うことができる生活レベルになり、資本家vs労働者という図式はくずれる。1部が経営者になるチャンスがあるし、ピンハネされるだけでなく、自分も向こう側の席にすわるチャンスがある。
それで『マルクスが日本で生まれていたら』出光佐三氏の考えには郷愁を覚えるものの、家族主義の日本と金銭=物質主義の欧米という説明も、今ではすこし違うと感じるのだ。

それは昔の金持ちや政治家だけが得ていた生活、つまり家庭内の雑事の代行者を雇えないまでも、重労働だった掃除・洗濯は機械化した。いわゆるミドルクラスも妻のパートや共稼ぎなどにより女中、書生、秘書などに代わるサービス業(ベビーシッター、コンビニ、介護センター)が利用できるようになったのである。失ったものは家族で分かち合う時間と共同作業だともいえる。

職(雇用)の安定だけが頭痛の種

他方で職の安定については、賃金が上がるにつれ、ブリックス国が安い労賃で安価な商品を出してくれば競走が難しくなり、結局競争に勝てる労賃を押さえるために、自動化=機械化での対抗で上限が市場できまる。大国は別として1国だけでは弱いから、EUなどに固まって対抗する。
こうして、再びグループ化が進むが、それが年金などの財政支出の自律力の差でグループ内がひび割れて、争いがくり返しが行われ、エンストに近い状態になる。

左派の政治家は役割を失う。そこで社会の底辺の貧困層の救済だけでは当選できないので、主流派の政策を何でも反対という職(野党少数派)が復活してくる。すると、それと与党の中間という、少し立ち位置がふらふらする中間派が必要になる。

計画経済の社会主義的な政策では、1党独裁国に近く指導層はピンハネの中味をかくす私欲が強まり、絶対に透明な政治ができない。G7とEUはいつまでも買い続けることも出来ない。結局は各国が製造業の棲み分けでもしない限り、計画経済国と自由経済は続けず、どこかでブロック化が再現する。近燐国とは仲よくという子供のクラス会の延長ではバランスしないのだろう。
    
FTAやTPPはその変形だから、農業の就労者4%(総売上GDPの0.34%、平均年齢66歳)のために経済全体の競争力をどこまで犠牲にできるか、企業は個別に海外に移転するかである。これについても、国有企業は貿易で(WTOなど)合意を無視する国が現われれば、その歯止めをどうするか。新たな課題が、国際入札などで顕在化してきている。労働者不足が顕在化すれば、農業者への補助を軍備増強などに振り分けるかも検討課題だろう。

自由経済は、ただ安ければ良いとも言えない

会社人間になっている間は、会社さえ売上げ利益が維持できればよいが、帰宅して消費者にもどると、視点は供給サイドの夫と需要サイドの妻は売り手と買い手の中間になり、適度に良質のものが適当な価格で手に入るかというところで落ち着く。買うときは安値もよいが、ご近所の労働者の職の安定がないと市街地の景気も左右され、シャッター通りばかり増えても困る。

米国の大都市郊外、今私が住むようなシカゴの郊外では、民主主義と資本主義がほどほどに実現している環境がある。しかし大都市のダウンタウンではマイノリティーが多く、最低生活も教育面では行き届かない階層が、高い失業率と犯罪地域を構成し、これをどう救済するか。単一産業だけの町は財政が破綻し、更に過疎地に近い場所では、生活上も不安がある。

米国は財政建て直しのために、海外で武力的な治安維持を続ける経費をけずり、国内の教育や福祉に回すという動きになる。つまりは、日本も民主主義・自由経済(バラマキ)で済むという訳にもゆくまい。自国の自衛のみならず、周辺地域の治安維持に参加せよということになる。

労働の価値、マネー以外の価値は何か

結局、労働の価値も生産性を上げる引き換えに賃上げを要求すれば、国際競争に勝てなくなる時点でどうするかといえば、ものづくりでは工場の多くは国内と海外と両方に存在することなる。つまりは自分の国内労働だけでは低賃金層が救えない。

では金融投資だとウオールストリートのようにマネーを集めて運用すれば済むかと考えると、米国では過去40年で、1%の国民が40%の金融商品を保有する偏りが生じ、残りの衡平を欠く状態が生じてくる。民主主義でも平等が失われると、社会の中に格差による階級制度が生まれる。格差社会に戻ってしまい妥協しなければ、民主主義そのものも機能しなくなる。

では何を規準に生きればよいか、衣食たりて礼節を知ればよいか、そこには社会の衡平を保つための分かち合いと、受け取る側が怠惰にならないで、活き活きと生きるための知恵が求められている。
分かち合いが行過ぎれば社会主義や共産主義の配給社会になり、独裁の不透明性を利用した指導層の違法なまでの独裁に向かう。生きるとは学び、働き、協働の社会貢献をし、一定のゆとりの時間を自由につかうことだ。分かち合いの度合いは、どの程度だろう。

IT時代で就労は工場や会社だけとは限らない時代が来ている。そう考えると労働ではなく自分の時間こそが人間の個人資産の原点にある考えざるをえない。
一生は時間であり、与えられた持ち時間を如何に過ごすかを真剣に考える時がきたのだ。時間の総てを金に変えるマシンになるだけでは、社会は安定を欠いて、成長しなくなる。そこには、自由をどう自律で制約するか、町村のグループではどうか、改めて見直す時期がきているのだ。

<以下は次号>



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