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先行きの不透明(想定外)をどう減らすか(1)
今日の天気予報から始り、自分は今日は何に力をいれてゆけばよいか。短期の2、3ヶ月から、3年先の中長期まで、何をやろうとしても選択肢に迷う。当たり前だが、迷う理由は不確実な中で選ばねばならないからである。
ユダヤ人のダニエル・カーネマンは、こうした不確実ななかでの経済的な判断について、賭けやギャンブルの例などをあげて、人の思い込み(バイアス)と、その防止方法を説明している。(「ファスト&スロー」(カーネマン氏はカリフォルニア大博士、ヘブライ大教授、プリンストン大名誉教授、02年ノーベル(経済学)賞)
正解続きの判断はありえないか
それはブラックジャックで、赤赤赤赤と何回だせるかという確率に近いかもしれない。
経済学者は論理の世界で進化しつづけてゆくとすれば、数学の確率の考えならまだしもだが、経済心理学・思考心理学、哲学などでは、その反対に働く心理から、意見の一致はまず無理である。
仮の話しだが、私が働いていたような総合商社で、そこに働く人達が、すべて世界の最先端をゆく経済や確率の理論を学んで(いなかったが)、仮に学んだという場合であったとしたらどうだろうか。多分それでも正解続きの判断は続かなかっただろう。
なぜなら、日本企業の場合は50歳以上の役員や40代の執行役員、30代後半からの実務執行責任者などが重要判断の多くを行うからである。5年か10年に1度の世界的な通説の理論を学んでも、それぞれの世代が、その後に開発された理論を学んでいるとは限らない。忙しすぎるのだ。
上司は30年前の理論に基づいて判断をしていると分かった場合でも、貴方は間違っていますと言うのは勇気がいるばかりか、各々の業種でも社会全体(現象)でも、それより先行している場合もあれば、遅れている場合もあるからだ。
リスク回避かリスクテークかは、その時の状況で決まる?
これは景気の波のどこにいるかによっても変わるし、その時の上司がここは賭けるべきだと考えれば、その方向で動くのが組織である。つまり最新の主流の学説によって、事業の方針を選択するよりは、もう少し人間的な判断が働くのだ。つまり、営業担当の役員が、自分はこの新製品で賭けてみようと考えて勝負するケースでは、集団の意志を1つに纏めれば、奇跡も起こしうるからだ。
そして事業計画を提出するばあいは、早く着手したければ早く完成する計画を作りがちだし、実際にどのくらい掛かるかが分かっていたら、提案しなかったであろうという見込み違いもあるという。
「死亡前死因分析(Premortem)」「楽観的原因究明」
私が30代で米国内をマーケティングで走り回っていた時に、こんな便利な言葉は無かった。
むろんカーネマンがいうように「楽観的な(=だめな)セールスマン」という言葉はあったが。
しかし40年前には、彼の”敵対的共同研究者”はいなかったので、重要な決定に至ったときに、公表される前にその経緯をしる人たちに集まってもらい「今が決定の1年後だとして、決めた計画が実行され大失敗に終わりました。5~10分でその経過をまとめてみて下さい」というアイディアをもつ人もいなかった。これは、氏がいうように素晴らしい考え方である。敵対的共同研究者をもつことに知恵と勇気を感じるのだ。(敵対を批判的という意味で捉えているが、日本では先輩後輩で、年功序列で『お前がいうのは10年早い』とつぶしてしまっていないか)
決断に賛成するチームの想定よりは、反対する人が持ち出す広範な想定外の事例が検討される可能性がある。成功のためには望ましくない条件を”敵対的”に洗うのは、予防につながるのだ。
日本式はこうだった。「君は大変な貢献をしてくれた。ここから先は、自分の好きな事業をやって宜しい」と言われ、内心跳び上がって喜んだ。
まもなく「但し、日本の本社の要求する中から選んでくれ」。とりあげたロボット事業は70年代の米国では、大手2社があり、小型はプログラミングの問題で、市場テスト段階で時期尚早とわかった。
その内に「やはり打率5割以上をねらってもらえないか」。
その内に「やはり打率5割以上をねらってもらえないか」。
「王貞治でも5割には達しないのに。コレジャー最初からバントか」と言うのは内心の声であった。
直ぐやれと言いながら、後から条件が追加される日本式、検討段階で"“敵対的”共同研究者を加え、時間が掛かる欧米式、その後、大分変わっていると思うが、、どうだろうか。
もう1つは、直感も含めた想定外が増えすぎている日本社会について、これは現場・現物と文書社会の乖離といえる部分がある。
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先行きを不透明にしているのは日本人(2)
『真理は間違いから逆算される。そのためには間違いを記憶し続けなければならない。これは消極的能力であって積極的能力ではない』鶴見俊輔「思想の科学」でこういう考えがあったとNHK報道で知り感心した。実は自分の過去の様々な失敗例をまとめて日本からの学生達に説明していたからである。
真理は何かは具体的でないと姿を現さない
『これは消極的能力であって積極的能力ではない』という補足がついている様に、鶴見氏は、間違いの過去を研究すればプラスの価値が生まれるとは言っていないのでも明らかだ。
私は実際の撮影を見たこともあり、関わった経験のあるホログラムという立体映像を2Dの中に取り込んで表現する技術を思い出したから。
シンプルに言えば2つの光源に分けて被写体に別々の角度からレーザー光を当てると、それが立体像を写すときは、それぞれの光がぶつかり合う部分で、光が反射してきた物の形の立体空間ができるというもの。(https://www.google.com/webhp?hl=ja&gws_rd=ssl#hl=ja-S&q=hologram
+mechanism) X線の代わりにミューオンという宇宙線を使って、福島原発の溶解した燃料の位置を映し出すというのも、こうした考えの延長にある気がする。
両眼で見れば立体に見える原理を再現したものである。つまりはその干渉空間が立体そのものなのだが、それは被写体があるから出来るのである。だから、図の物体のない全くの空は姿をあらわすことはできないのだ。
光の世界と思考の世界とは違うという反論もあるだろうが、どう違うかの証明が出来るのだろうか。失敗を続ければ、同じ失敗は避けられようになる。しかし複眼でみなければ、立体には見えないのだという点が、日本の識者の論点で、いつも偏っていると感じるのだ。
真実を述べる勇気があるか
仮に自分が真理を掴んだと信じても、それを述べるのは勇気と覚悟がいることである。なぜかといえば、それを証明するだけの事例がないからであろう。しかし誰が見ても分かるような真理となっている事柄をいう必要はない。
慰安婦がいたとしても強制連行があったのか無かったのか、論点の鍵である。
それについて、日本の主力新聞がなぜ意図的に虚偽報道を続けたのか。それに反対できる社員は居なかったのか。こうした加害行為をどう裁くのか、日本人の意志が問われている。こうした胆力と勇気のない人は、米国などの大国では影響力をもつことはできないと考えている。
『真理は間違いから逆算される』という思想家たちが、『慰安婦の強制連行があると証明できなかった』という朝日新聞の発表から、どう逆算して何が立証出来るのだろうか。逆算しても出てこないものは無かったというしかない場合も多い。
日韓で将来のためにこの辺で妥協しましょうという政治的合意で、河野談話が出されたが、それを融和のために使うどころか、悪用して”強制”の枠を拡大し挺身隊と慰安婦をつなぎ合わせたのは韓国である。(それで更に日本への攻撃材料にして、バブル崩壊で弱っている日本をたたくチャンスとみたのだ)
慰安婦の強制連行という捏造は吉田清次であれば、それをプロモートしたのは朝日新聞だったが、それに基づいての河野談話に仕上げたのも日本人である。
国連に第3者の観点として売り込みクマラスワミにまで持っていったのは、日本側でなければ韓国側だという思考が欠けていたのだ。ここまでの流れをみれば、韓国側の対日ネガティブ・マーケッティング戦略がハッキリする筈だ。脇役に足をすくわれて、大舞台の米国で主役から下ろされそうになっているのだから。
「優しい」というのは妥協に生きるということ
いまだに、「お隣さんだから韓国人には優しく」とかいう意見があり、こうした批判的な複眼の欠けた人がメディアに多数いる点が、日本の脆弱さと考えて、常に疑ってみることが必要だ。
隣国がどのような言葉を使い「優しく」「友好的で」といいながら、領土問題をおこし、経済支援をもぎとり、主要市場でのシェアを握ろうとする戦略に気付かぬ人は、国際舞台には無理ではないか。
すこし話しが跳ぶが、日本にも思想科学者や知の巨人は数多いが、戦前の軍国主義これに反対した人はわずかである。戦前は思想統一が行われていた国であり、政治関係者は身の危険を感じさせられた軍の独裁があったと言えるからだ。そこで自由な発言ができたのは海外に居住先をもっていた人達だけであったと思う。
戦後になってそうした軍の暴走を止めるべき制度的な歯止めを用意した人も聞こえてこない。たとえば軍事裁判所がなくて、平時法を否定する軍人の行動をどう非公開で裁くのか。こうした法制度の不備を正すのを放置することは、今後も自国民による加害を続けることになる。
自分の真似をしてどうするのか
現政権は少ない例外だろうが、現政権の前の日本人のリーダー層が、残念ながら米人から見て余り信用されていないのは、米国の政策に対しては、総じて批判的な声は高いが、自分の意見を米国で表明する政治家が非常に限られているからである。悪いことは総て米国のせいだという中国のマネをするのもやめにしたら良い。自分の力を信じて、一緒になにをできるかを考えるのだ。
これから韓国にはどう対処すべきか、何を学ぶのかという議論があるが、日本のマネをしてきた国に学ぶものなどないと思う。自分が自分の真似をしてどうするのか。
その意味で、日本のマスメディアがいかに脆弱か、安易な妥協でいかに国を危うくするか、自国の中にも加害者を抱えているかを認識できたのである。その意味で慰安婦問題はそれをハッキリさせてくれた教材であり、今後もそれを正す試練が待っていると受け止めるとよいと思う。でなければ、海外で国民の経済活動を守り、発展することはできないのだから。
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