2013年8月14日水曜日

13806自立に役立つ考えかた[52]

13806

自立に役立つ考えかた

すでに述べたが、欧米人が専門分野の教育だけでは足りないと考えるのは、批判的な考え方と倫理的な判断の2教科あり日本人が見落としていたもので、その奥には論理的な考え方と、それで片付かない宗教がある。大学で学科として専門分野を勉強すればよいだろうか。 

ウソと本当の区別がつかない大衆にならないために
1例を言えば、相手国が批判してくる場合は、それが武器になり優位に立てると考えているか、そうでなければ、先に言ったもの勝ちで、自分にはもっと後ろめたい部分があるからだ。

とくに中国の南京事件の捏造や、それに盲従しまねをする韓国の慰安婦・拷問などは、日本の平和主義の教育者が、《ウソならここまで手の込んだことをする筈がない》と考え、疑いもせず修学旅行に生徒を引率するからである。
近燐国が日本国内の子供を欺くのに、手を貸していることになる。〈46〉で中国人のうその数々は述べたが、何事もすべて事実かを確認する必要のある国だ。もとはといえば、内政干渉な教科書問題でつけこまれたからである。

両方とも賄賂だらけの社会だが、中国とインドの違いは、インドでは詐欺やウソは違法だからやらない点が違うと聞いた(実際にはかなり汚染されているのは法治が弱いからだ)。インドの賄賂は個人のポケットに入る隠れた税金ともいえるが、中国のはグランド・スキームで行われる党の吸い上げであるという。
シャドーバンキングでの不動産のバブルが200~400兆円と言われている。中韓にゆすられたのは歴史の無知に付け込まれたのだ。教育は清く正しく美しくだけでなく、『なぜだ』という批判的思考が欠かせないのだ。

 思想や宗教の国籍

(A) 自分の考えを外国人に決めさせない  
S・ハンチントン教授は〈日本が世界の8大文明の一つ〉というが、すぐ後で《日本の文明は高度に排他的で、広く支持される可能性のある宗教(キリスト教やイスラム教)やイデオロギー(自由主義や共産主義)をもたないために、他の社会にそれを伝え、その社会の人々と文化的な関係を築くことができない》という。(注1) 自分で天恵を受けたり、修行で悟ったことがなければ、原点まで辿れないということかも知れぬ。しかし、日本発で世界に布教する仏教の団体もある。

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天国からの距離はどこからでも同じだ
という好きな言葉がある。国際化の時代であるなら、何でも〈日本人〉が最初に創ったとしなくても構わないし、宗教に国籍がある必要もない。米人の85パーセントはヨーロッパを経由したキリスト教を受け継いでいるし、それで他国と文化的な関係は出来ているのだから、日本人も同じだと考えればよい。

司馬遼太郎もさまざまな座談で〈日本人は思想を自分で作るものでなく輸入するものと考えてきた〉という。磯辺忠正氏は〈日本固有の古来の思想や信仰があり、それが価値体系として、外来の思想信仰の取捨選択への基準になったといえばいかにも体裁はよいが、実はそのような体系はない。ないところに日本文化の特性がある〉という(注2)。
司馬遼太郎のいう思想を輸入するという発想が受身である。そういう話題の会話では、聞き手だけですませず、そろそろ自分で『俺は・私はこう考える』という時期だ。それをどこの誰が先に言ったとしても気にしないでよい。信じるものがあれば良いのだ。

(B)ブレンドで最高のものができる  
人類発祥の地はアフリカだと明白になってきたが、いまの日本人は、縄文の時代から時をへて様々な人がきて住みついたことになる。だから最初に住み着いた原住民だけが日本人だと言う意味はない。
国境も定かでないころアフリカを立って、足の速い人は6万年まえ、多くは3万年かけて歩み来た先祖が、その途中で考え学んだ思想があれば、それがブレンドし風土に合ったものに融合されたといえるアジア大陸の東の終着点までの知恵の集大成であり、それが日本の思想である。それは日本という国ができる前であっても、その後でもよい。

鉄鉱石が採れなくてもブレンドで世界一のスチールを造り、優れた車や電気品も造れるなら、それで生活している人間が、思想だけは純国産であると主張するのも理窟にあわない気がする。
ギリシャのように2千年以上前に偉大な思想家を生みだした国も、アフリカをでた遠い先祖は通過してきたかもしれないから、内外の人材や素材に敬意をもってその英知を享受すればよい。 

(C)ブレンドを排除する弊害 
靖国が問題にされたが、国のために命を犠牲にした人々に感謝して祀るのは、無名戦士の墓など世界中で広く行われる慣行で、文句をいわれる筋合いはない。 
しかし1歩欲張ってそこに祀(まつ)られた《カミと精霊が国と市民を護ってくれる》とつけ加えると、因果関係が立証できない祈りが加わるから神道独特の信仰だといえる。

つまり国として《死者の霊による護国》を祈ると、カミや仏が守ってくれると信じる宗教(法人)と同じことになり、憲法で定められている私的であるべき個人の信教に政治が関与することになる。
憲法では宗教は個人の権利だが、国は関与しないと規定しているから、国の定める宗教をもつことは政教分離に違反する問題が起きる

市民より上の者はいないという意味での民主主義を選ぶなら、憲法が最上位になり、政教分離で切り離さざるを得ない。外国人に日本の法律と秩序を守り、好ましい人は永住者になることを認めるなら、日本の憲法や法体系も抵抗なく受けいれうるものでありたい。
仲間に入れて欲しいという人が多いほうが、その逆の秘密結社のような国や集団よりおおらかに生きられると思う。それは怪しげな人間に選挙権を与えるかどうかの方法論の話しではない。

② 人間を越えるものがあると信じるかどうか
国籍をとわず共通することは、富士山の頂上で仰ぐ旭日やグランド・キャニオンで眺める美しい夕日には、人間の力を超えた美と感動があることである。太陽の光の明るさと温かさのおかげで、人間や自然界が生かされていることへの感謝の気持ちが湧いてくる。

どの宗教かに関係なく、宇宙には人の力よりは大きなものがあると信じられれば、それが個人の信念につながる同じ条件なら同じ結果が得られる論理や科学の証明の世界の外に《神仏がいる》、《悟りの境地がある》と思い、それを信じ頭を下げる。それが信仰と受け止めている。他国の人々との付き合いでも、「唯我独尊でなく、恐い人がいる」人、そうした信仰がある人の方が、同じ宇宙に生かされた仲間に敬愛の念が持て、信頼感があると私は感じる。

多少頭のよい外国人が、理屈には合うがどうも全体としては私利私欲ではないかという議論を仕掛けてきた時に、『自分の信念に合わない』と考えれば、『それは私の生きかたではない』と答え、不動な心ではね返せると思う。また信念をもつ人には、まわりの人はいじめがしにくいと思う。信念や信心が自分を保護膜で守ってくれるからである。

(3)政教分離が鍵(最上の価値は命か宗教か)
欧州の古い哲学では真・善・美を人間の価値とし、生きるうえでの基本価値の元になっている。自由か命かの選択を迫られれば、一般人は生きていなくては始まらないから、命が根源的な価値である。個人の価値の核心となるものを、個人の総和である集団が否定するわけにはゆかない。だから国も市民の命を第1優先として守るべきということになる。

①市民の命か宗教か
日本国憲法の前書きと13条で国は市民の生命と財産を守ると明言されている。ここが曖昧になると、国が市民の人権を保障できない利害の対立する存在になる。理屈をいえば政教分離をする国では、国は憲法と国民の命の上に、神仏を最上位価値とすることはできない筈である。それは個人の自由意志に委ねられるべきなのだ。法治国家で異教徒との共存を認めるなら、憲法上で政教分離をせざるをえないのだ。

アラブ諸国で例外は国民の選挙で指導者を選ぶトルコやエジプトくらいといわれる。1神教の《絶対的な神が宇宙をつくりこの世を創った》と信じるイスラムなどで政教分離していない国では、宗教上の神が最上位の価値となり、宗教指導者が政治家のトップより上位に位置づけられる。中国が瓦解すると考えるのは、党員(政治=私利私欲の代表)が法律の上にあり、法治国家でありえず、腐敗を止められないと考えるからである。


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