2013年8月27日火曜日

抑止力のない平和論では国防はできない[56]


抑止力のない平和論では国防はできない
(4)(基本価値が明確でないリスク)

穏便にすます庶民習慣

外国人とのコミュニケーションに弱いといわれる理由は、後に触れるが、自分自身がなにがしたいか、欲しいかを国外に発信せず、人の意見を聞きすぎるからだ
一寸弱みをつかれると穏便にすます《和》の習慣で、慰安婦問題などはよく調べもせずに、相手の言葉を鵜呑みにして乗じられた。戦略的な長期的な計画性に欠け、短期の平時のソロバンだけを判断基準にしすぎているからである。              (常識で考えても、1930年代は市民の平均収入が45~55円/月、内地も半島でも売春婦は合法の時代に月300円で募集していたのだから、強制する必要などなかったのだ。)

日常は穏やかで、和をもって接するが、いざ非常時となれば、鉄の団結で死ぬまで反撃するのは脅威であろう。これは武士道の両面である。江戸時代の武士は切腹に見られる自己犠牲によって、藩(主君)や家が維持され、そのために命を賭けた。生き方や形を整えるほうに重点がおかれた。
〈生き方〉か〈命〉の価値かという比較はなく、生きる手段「ハウ」が、何「ワット」を押し出してしまい、「花」の価値が「見事に散る」ことに置きかえられた。将が生き残り、国のために多数が死んだ。この過去を生かし将来をつくる勇気をもちたい。

兵の犠牲を最小限にできるリーダー(将校)の養成
日本人で裁判をおこない、兵が犠牲になった過程の検証する必要があったと思う。《武士道とは死ぬことと見たり》に通じる自己犠牲するはずの職業軍人がリスクを避け、強制動員された市民兵に《恥を知り玉砕すべし》を求めた。兵に確実な死を要求した特攻隊がよい例である。捕虜になることを禁じ、多数の餓死者を出したのは、1部の将が兵を守る責任感がなく兵站の経験者でなかったからだ。

憲法を改定するなら関連法も含め自衛軍は武士道精神を重んじ、リーダー(将)は部下の生命を守る義務を負うとすべきである。戦争は自衛であるべきだと、私は思う

前の戦争の反省点の最たるものは、多くの生き残った将校に罪があるとすれば、300万人以上が死ぬまで、負けたと判断しなかったことに対してである。1945年より1年か2年早く矛を収めておれば、死亡者は半数いかで済んだと考えるからだ

(5)属国にならずに共存できる基本の条件
だれが考えて作ったものでも〈善いモノは善い〉と判断するグローバルな価値観は、最近の先進国の産業界では常識であろう。これに対し、憲法論議に見られる《外国人に押し付けられた》というだけで排除しようとするのは妥当ではあるまい。自国を守ろうとせず、憲法をたてに植民地的な存在に甘んじ、基地のヘリの事故だ、騒音だと騒ぐのもおかしい。基地の周辺までぎりぎりに住宅をたてさせるような、いい加減でなく1キロくらいは離れてすむ空き地はいるだろう。同盟関係も8割は自衛するから、後方支援を頼むという形にならねば、自立はありえないと思う。

なぜなら植民地=外国軍の治外法権が嫌ならば、在日米軍の兵士に対する法管轄権をもたざるをえない。そこまで要求するなら、米軍も安心できるような差別禁止法を成立させ、住民すべて例外なく適応され、遵守を強制される統治体制を持つべきである。私は慰安婦問題は捏造だと確信し主張するが、それは在日半島人が憎いわけでもない。

(逆にいえば、自国と同類の法律の国であれば、人種や国籍で差別されない筈だから、その裁判から逃げる必要はなくなる。軍人には軍人の刑法を必要とするから別の裁判所が要る)
米兵もどこのスパイか、誰の味方か分からない国民に裁かれるのは拒否する。逆に言えば同じルールに生きる集団でないと、統治できないからである。これはマスコミの言う人権の表現の自由や自治の問題ではなく、法治国としての独立を守る防衛とそのための統治条件なのだ。人権の問題と、統治の責任を混同しているのは、自衛による自立の発想が欠けているからである。
 
終戦直後に戦勝国の要求もあり、世界の平和を願うことを憲法の基本とした日本だが、この憲法が《日本人の手で書かれたものではないから価値がない》という意見が根強い。
だがそれを言うなら上述の『なぜ負けたのか』『なぜ1~2年早く投降(敗戦)しなかったのか』という将の責任を議論し答えを出すべきである。
白村江(はくそんこう)の大戦で中・韓戦に破れ大宝律令を導入し(注6、7)、太平洋戦争に負け新憲法ができた。それまでの体制を見直すのが必要とされたのだ(注8)。

前著で述べたが、最初にやるべきことは、中核に国民の生命を守り人権を重要価値とし、共存の意志を明確に表現し、友好への希望をもつが強力に自衛はしますという姿勢である。これは自衛のための国防を強化し、スイスのようにハリネズミのような万全の防備体制を備えることと矛盾しない〈兵は凶器〉と心得ての話である。

銃やミサイルをもてば使う訓練はかかせない。2・26事件のようなクーデターを防止するためには銃や弾丸の持ち出しと返却には厳しい維持管理の予防体制と将兵を裁く特別司法組織もいる。国内で兵卒の統治ができなくては、外国で統治できる筈がない。


26年前の87年は円が2倍になったが、日本は《銃はあっても弾薬は数分間分しか在庫がなく、米軍に分けてもらうしかない。外国頼りよりは国民の1割が自衛団となる方が誇りを持てる》との主張があった。(注9)(*注・《スイスでは各家に兵器を備え1日で50万人、2日で国民の人口の10%を要塞に配置できる訓練と体制がある》という。

この問題はもう少し考え続けたい。

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