2013年6月4日火曜日

13603ものを決める”自分”の規準を持とう【018】

13603

ものを決める”自分”の規準を持とう【018】

江戸幕府が崩壊しつつある中で、流れに乗り遅れた会津藩がどう戦ったかを大河ドラマでやっている。幕府への忠誠を重んじる藩主の下で、やむをえなかったのだろう。
当然ながら、藩のために1番よい選択か、何の価値を守るために多くが死ぬのかという部分は選択の余地がない。それが現在はあるのだろうか、何があるのだろうか。

現在の価値は、国は憲法上は人命と財産を守るというから、これが最上位で次に公益を害しない範囲では人権(自由)である。それは考えるほど単純でもなさそうである。


(1) 正義に合えば外国人は恐くない


日本人が自分の意見をいわないのは、考えたことを言うと損をすると教えられているか、または、ものごとを《なぜか》というところまでさかのぼって考えないからだ
米国では価値観の近い友人でもお互いに(無条件には)同意したり信用したりしない。逆に相手の意見に反対しても、理由が意味あるものなら気分を害することも少ない。

考え方がわかれば、どんな価値観の人物かがわかり、価値観がしっかりしていれば安心でき、他の人にも紹介できる信用の足がかりになる。だから《自分がこう考える理由はこうだ》というところまで説明をした方が、とくに外国人には理解されやすい
日本人は逆で、人の意見と違うと判ると酒がまずくなると考え、バカ話で仲間ずくりをするが、大事な問題の議論になると分かれてしまうことがある。ならば大事な幹の部分では意見をいわず、枝葉末節で合意すればよいと考える打算からではないか。 

ハーバード大学のM・サンデル教授の東京大学での《白熱教室・正義とは》をユーチューブで観た方も多いと思う。日本語訳の著書のさわりだけを述べれば、答えるのが難しい問題を具体的にとりあげて、それを〈正義〉ではどう判断するかの議論である。
・身内の家族に殺人者がでたばあい、警察に通報すべきか否か。
・人に衝突せざるを得ない事故に巻き込まれた路面電車の運転手は、数人にぶつけても1人をひき殺すことを避けるべきか。それとも一人を犠牲にすべきか。
過去の日本の朝鮮半島の併合の謝罪・賠償の責任は現在の世代にあるか。
・オバマ大統領は米国の原爆投下を謝罪するべきか、などを挙げている。

昔、倫理学や法哲学を学び、当時は一方的で退屈な教授の話をきいていた記憶がある。今の学生が生活に直結する具体例をまるで米国の授業のように、活発に発言するのを聞き、うらやましくまた嬉しく思った。

(A)まずは発言する勇気、プラス正義

黙っている貴方は存在しない人、誰かが何かをいうのを待ってコメントするより、自分はこうだと言わねば分からない。先進国ではこれが出発点である。           自分の番がきて、何も言えないでは悔しいし、チャンスを失うのは惜しい。だから『仕事には関係ない』と片付けず、考えておくと役立つのだ。


〈正義〉という言葉は最近の日本ではあまり聞かれないが、正義がなくては法律が成りたたない程に〈法治国家には欠かせない価値〉のはずである。この価値は個人が生活するうえでも「自分は正しいことをして、正しい判断ができる」という自信を与えてくれる。
正義は自立するのにも欠かせないが、個人のものと捉えるか、家庭、村、国など共同体への忠誠心との天秤にかけて制限されるか、どう影響されるか、意外に奥が深い。

教授への評価は人により異なるだろうが、欧米社会の考え方と理論づけの方法は、各人の価値観で正義のなかみが変わり、選択肢がわかれることを説明している。
価値として自由と民主主義や最大多数の幸福を説く功利主義、アリストテレスの共有善(美徳)の涵養(かんよう)、人権につながるカントやロールズの個人の自由価値と尊厳など2、3の際立った価値観による論理で、結論が大きく変わることを示してくれた。

自覚しているかは別とし、人はそれぞれ育った環境により〈正義〉への距離感や肉親への情などの強弱もちがうので、どれか1つが絶対に正しいとは決めつけられない
単純にいえば、損得を優先するか、正義をとるかである。
どちらがどっちだとは云わないが、日本では関西系と関東系には温度差があるかも知れない。

そこで納得するために議論がいるのである。こうした思考のトレーニングは、方針や正しいこととは何かについて、外国人と仕事をしてゆく上で、どういう意見があるかが3種くらいに分けて予め予測ができるから、参加する上で生涯の自信につながるのである
日本の教育はここに弱点があるから、近燐国はそこを攻撃する教育をしているようだが、攻撃する相手国がうそで固めた議論なら結論が正しいとは限らないし、彼らのいう過去や現在が正しいわけでもない。

(B)価値は何か  

各人が価値観(思想)をもち、それに基づいて行動を共にする場合は資本主義や社会主義などのイデオロギーになる。

例えば『今度の選挙では原発が争点です』というマスコミの声を聞く政治家は『私は脱原発です』と自分の職の安定と、選挙での世論調査とを重ねている。

『原発は危険すぎます』『 どこまで電気代が上ってもですか?』『絶対反対です』という人は、国民の選択はリスクさえ避ければ良いはずだと考える。コストは幾ら上がっても、その時は生活補助でもよい、つまり各人の自立より福祉国家だときめてる。

脱原発なら、太陽光エネルギーは現状の電気料金は2倍になるから無理である。当分は化石エネルギーの火力発電に戻るから、中東からの石油ルートは死守すべきというならわかる。ところが、憲法9条改正反対、米軍はグアムまで後退せよとなると、防衛ラインは誰が守るのか、この人の思考回路はどうなっているのかという事になる。

「日本人の場合は思想がなくてイデオロギーを語るから、お互いの思想の原点に戻りこういう協働行動もとれるではないかという妥協ができず、感情的にケンカばかりしている」という白州次郎氏の指摘がある。この点を神戸女学院大学の内田樹名誉教授は
自説に確信を持つから譲れないのではなく自説を形成するに至った経緯を知らないから譲れない》と、"なぜ?”ぬきの記憶による学習の弊害をわかりやすく掘り下げておられる。
他社の機械のコピーした会社が、次の製品を出せないのと似ていないか。

(C)価値観と行動が一致しなければ信用はない 

東京裁判での《どんなに個人では(3国)同盟に反対でも、成りゆきがある》、《(日本では)自分の意見は意見、議論は議論、それとは別の国策が決まれば、決定に従うのが慣習だ》という小磯元首相、東郷元外相の反論を引用している(カッコ内は筆者)。日本の慣習を説明しているつもりだが、多数決できめているのが日本の慣習だといいたかったのだろう。 

米英ではこんな議論は論理がなりたたない。やるという約束、つまり言行一致が契約理論の信頼性の前提だ。「信条に基づかない議論と慣習に従う行動がある」という多数に従う説明では説得できない。
信条に基づかない戦争反対論はありえないから、自己を有利にする証言にはならない。
だから信条がないとか、信条に基づかない行動をとりますということは、契約社会では言えないのだ少なくとも公式な場ではいえないと考える。

ならばどうするか。基本的な価値観に関することがらでは信条に外れる行動を要求される地位にはつかないか、要求されたらそこで辞めるか、更に大きな価値のために協働するということである。「やらせてくれるなら続けましょう」では困るのだ。

登る山が違っていたら登らないのだ。登るならば、その後ろに更に高い山がありその一部の山と考えることで、どの道にするかの方法論では妥協は許される。つまり更に広い価値があれば、それで纏める。その間にトップと閣僚達は徹底した議論を交わし、部局の主張も押し合いをして、最終をトップが決める。この過程は日米同じであろう。

今の日本の政治家を補強するためには、外交での法律知識ではないか。それに加えて自分の考える正義に合致して、信条にあう行動をとれれば欧米人にも信用される。さらに最大多数の利益になると合意できればビジネスでも契約できるといえるだろう。
 
実は欧米でも論理だけでキチンと整理された社会かといえば、必ずしもそうでない。米国での仕事でも、NPOなどの様々な機会にも、米人経営者や弁護士などと議論してきた際に、こういう思考が役立った。価値観と信条を持つことが西欧での議論には欠かせない。

「私自身が自分でも信じられないことをする人間ですが、私の信じることは賛同して下さい」といわれたら、論理的な考え方の米英人でなくても、誰もがおかしいと気づくが、これと似た発言や行動が東京裁判から65年後の今も行なわれている。

約束する言葉と実際の行動は関連性がなくて構わないと考える人たちは、関連性があるべきだと考える人たちにとっては支離滅裂な人間、又は詐術的(うそつき)な存在になる
そこには、そうすることの止むにやまれぬ事情があったことを説明するしかない。

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