忘れていた大事なもの
東北大震災が起こるまでは、国でも民間でも、優先されたのは
① 行政(管理部門)は現状維持、
② 財界など民間経営者は企業や業界の利益、そして
③ 消費者である国民のなかで高齢者は健康保険や年金の安定であった。
だれも自分には何が大事かを考えなかったのだ。
利回りゼロ金利でも株式投資をせず銀行預金をして(=銀行に金を貸し)、銀行は国債を買い、不況になっても考えなかった国民が悪かったのだ。健全財政、現状打破が先送りされてきたのだ。
(A)自分の金より大事なもの
もっと忘れていた大事なものがある。
それは大震災と尖閣侵入で示された人の命である。
もっと忘れていた大事なものがある。
それは大震災と尖閣侵入で示された人の命である。
①から③までの経済的な損得だけで切りすてられない重要な政策が④非常時対策と国防だと思い知らされたのだ。それが阪神大震災、東北大震災、尖閣侵入だ。
気づいたら誰も守ってくれていないかもしれないのだ。
判断には非常時の生命の価値を無視できないということを。残業に追われひまのない就業者たちや、バイトで稼ぎ遊ぶ若者も、生きる本筋の考え方と価値の根拠を考えることが、人任せにできなくなったのである。
(B)限られたものは優先順位がいる
財源が限られる政策選択のジレンマは、どれを選んでも実行には資金がいるが、1つを生かすには何を捨てるかの苦しい選択を伴う判断があることだ。それは云うまでもないが、時間と金である。時間とは細切れにした生命(いのち)である。
非常時には、考える時間を与えられずに決断を迫られるから〈想定外〉が表に現れる。これは緊張感と責任感がなくては判断できないものである。小だしのごまかしではなく、腹を決めて本筋を通すしかない。
たとえば人命は最高の価値と考えても、1人を生かすために多数を犠牲にする選択があるときは、どちらを優先するか。
東日本大震災のような場合、サンデル教授のいうように、短期で数人を救うか、しかし長期的には多数が放射線で被災する選択があった場合はどう考えるか。
もっと極端な例は拉致被害者の救出である。何名が生存しているか分からないのに、核ミサイルで攻撃するという狂人(まがいの)北の攻撃の可能性をへらすこととどちらが重要か。被害者救出の条件は続けながら、(多分おどしではあるにせよ)核攻撃の可能性をへらす交渉はするしかあるまい。
もっと極端な例は拉致被害者の救出である。何名が生存しているか分からないのに、核ミサイルで攻撃するという狂人(まがいの)北の攻撃の可能性をへらすこととどちらが重要か。被害者救出の条件は続けながら、(多分おどしではあるにせよ)核攻撃の可能性をへらす交渉はするしかあるまい。
原発廃止はいうのは簡単だが、電気料金が2倍になっても構わないのか。原発をやめてこれから5年、10年いやそれ以上のあいだどうするのか。電力会社に入社する若者がいなくなったらどうするか、単純ではない。(電気料金が倍になれば、製造や加工業ではレーザーのように電力消費の多い産業は国内から消えますが。アルミの鋳造も。)
非常時には考えている暇がないから、マニュアルは行動指令でなければ役に立たない。考える習慣は規模の大小は問わず、決断のためにも欠かせないのである。
それはリーダーかアンパイヤーかの違いになるが、行政や大組織にありがちなアンパイヤーを年功で選ぶ組織人では緊急時の決断に間に合わない場合も多く、非常時には日頃決断の伴う中小企業経営者のほうが役立つ。先ずは(自分のではなく)国民の生存を図るのが第一で、ここがハッキリしない人はリーダーに選ばないことであろう。
(C)弱いものいじめを罰するにも価値観と制度がいる
明治時代の日本人は、はっきりモノを言ったのに、なぜ最近は曖昧になってしまったのかを考える。それは民主主義の《自分たちの選ぶリーダーに政策を任せる》という制度は維持するものの、誰も自分以外は信じられず、任せなくなっているからではないか。
身近なイジメを考えてみよう。昔は小学生のころから「弱いものいじめをするな」と親や教師から耳にたこができるほど言われたものだ。いじめやけんかはあったが、今ほど社会全体ではなかった。
それは「弱いものいじめ」する卑怯者を許さないという日本社会に古くからある社会正義のお蔭であろう。ここが最近のようにソーシャルメディアでゆるめば「見て見ぬふりをする」「捕まらなければよい」ことになり、法律以前に社会の混乱のもとになる。国より町村で始めれば、かなり法治コストが減るように感じられる。
それでも価値を守る強い信念の行政官(検事も)がいれば、いやがらせ電話や振り込め詐欺なども『些細なこと』でなく、社会の根本をゆさぶるものと考え、防止し逆探知するシステムがもっと迅速に実行される筈である。
それでも価値を守る強い信念の行政官(検事も)がいれば、いやがらせ電話や振り込め詐欺なども『些細なこと』でなく、社会の根本をゆさぶるものと考え、防止し逆探知するシステムがもっと迅速に実行される筈である。
自己責任で生きるのだという自治体レベルでの意識の確立がないと、意見はちがうが仲良しだという自立や責任感をもった市民が育ちにくいし、本当に国民のための政策という誇りと責任感のある行政官も育ちにくい。大岡越前時代のご奉行ではないから、行政官は行政に力をいれて善悪の判断は避けて司法にまかせたらよい。『いやなことは駄目』『すべて人のせい』とする風潮のを変える必要がある気がする。
0 件のコメント:
コメントを投稿