2013年6月17日月曜日

13609欧米人との議論のために;考察(英米法)【024】

13609

日本の理解を超えた英米法の特徴; 塚越 至氏  


《注目すべきは英米法のもうひとつの特徴であるコモン法の概念を日本は理解していなかったことだ。コモン法では一方が提案した(これをオファーと呼ぶ)条件を相手がそのオファーの条件通りに受諾した(アクセプタンスと呼ばれる)場合に限って契約が成立する。
相手が付帯条件を加えたり、一部を変更してオファーを受け入れた場合には(これをカウンター・オファーと呼ぶ)、最初にオファーした者はその時点で最初のオファー内容に対する義務から解放され、オリジナルのオファー条件には拘束されずに交渉は一から仕切り直しとなる。

代わりにカウンター・オファーを提案した側は、他方がその条件通りに受諾すると契約成立から逃れることは出来なくなる

また、オファーやカウンター・オファーは相手が受諾する前ならばいつでも撤回することができる。即ち、相手に譲歩したオファーであってもその相手がグズグズして合意を躊躇すれば、オファーを取り下げてそれまでの交渉経緯には束縛されないことになる。

こうしてオファーに対するカウンター・オファー、そのカウンター・オファーに対するカウンター・オファーを繰り返しアクセプタンスに至るが、コモン法はもうひとつの制限を設けている。


アクセプタンスのままでは相互間の単なる約束に過ぎず一方が約束を履行しない場合には他方はその不履行を法的には請求できないとされる。その履行を義務付ける上で大きな役割を果たすのが、コモン法の特徴である「Consideration」という概念であるこれは米国で契約書を取り交わすとその契約書の冒頭に必ず記載されている法律用語で、日本では「約因」と訳されている。
相互に交わされた約束事に法的な拘束力を持たせるためには、当事者が享受する利益や恩恵への見返りである「対価」が伴わねばならない。利益や恩恵と引き換えに痛みを伴う犠牲が加わって初めて法的な拘束力が可能と考えるのだ。

当事者のどちらかが一方的に恩恵に浴し、他方が犠牲を強いられる構図は、それが後者の善意から出た行為であっても法的拘束力を持つ契約として成立しないことになる。この恩恵とそれに見合う対価の程度を決めるのが交渉時のバーゲニングである。


約因を分かり易い例で説明すればこのようになる。

失業して生活に困るBに、隣に住むA5,000ルの融資をオファーしたとする。コモン法の知識を有するBは、Aに、返済に際して金利を加算する、あるいはA宅の塀のペンキ塗りを約束するはずである。
なぜなら、このBAに支払う金利やペンキ塗りがコモン法では約因の効果を発揮し、Aが突然心変わりして数日後に返済を求めることを回避できることになるからだ。
Aの好意に甘えて2ヵ月後に返済すると握手を交わしただけでは約因である対価が存在しないために、AはいつでもBに返済を要求出来、Bには対抗措置が存在しないことになる。                       

しかし、Bが金利を負担したりペンキ塗りに汗を流せば、Aが心変わりした場合にはBは約束不履行でAを訴えることが可能となるのだ。この金利の率やペンキ塗りの条件、返済時期などをお互いにバーゲニングによって決めることになる。

コモン法の世界で持たれる交渉事にはこのバーゲニング行為が必ず伴うことになる。コモン法で武装したハルやルーズベルトは、日本が和平条件に合意した際に米国が負うべき対価は何かを常に追い求め、日本にとってどこまでの痛みが約因として可能かを探っていた。

しかし、日米交渉の推移を追うと、この儀式のようなバーゲニングを日本側が無視したのかあるいはそのような煩わしさを嫌ったのか、相互の思惑がすれ違った場面がしばしば出現している。また、米国側も大陸法の日本との違いをどこまで承知の上で日本に相対したか疑問が残る。


米国から見た大戦前の日米関係(22


野村・ハル会談には必ず同席していたバランタイン日本担当は駐日大使館に20年勤務した経歴の持ち主で日本語にも通じていた。法務担当のホーンベックが英米法と大陸法の違いを知らなかったはずがない。両者がハルやルーズベルトに相互の違いをどこまで注意喚起したのか。

1941年に外務省で日米交渉の窓口を担ったのが寺崎太郎アメリカ局長だった。法学部出身の寺崎は成文法である大陸法専攻だった。同じ時期にワシントンの日本大使館に勤務した弟の英成は法学部で英米法を専攻している。兄の太郎とは別の専攻を希望したと回想しているが、コモン法の特徴とそれに対抗する手段を駆使した交渉術を野村や太郎に説いたのだろうか。

仮想敵国の米国がどのような思考過程を辿るのかを見定めるためには、士官学校や兵学校では候補生に英米法を教授すべきだったが、しなかったのであれば大きな手落ちといえよう。日米交渉はルールの確認をせずに始まった格闘技の如きだった可能性がある。


ルーズベルトやハルが繰り出す「基本原則遵守」は、バーゲニングに先立ったディベイティング上のジャブに過ぎなかった。肝心なのはお互いに譲り合う約因の落とし所だったが、それを探っていた米側の心の内まで見通すことなく、バーゲニングの入り口で日本は開戦を迎えてしまったのではないか。

民間人が手に出来る関連資料は歴史の風化に曝され姿を消しつつあります。20世紀の出来事として歴史上に長く記憶されるべき太平洋戦争開戦に至る経緯を米国側の資料から検索することは、このような偏った歴史観を修正する上で資するものがあります。この考察がその小さな一歩となれば幸いです。》


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(注);私は国際公法・私法ゼミ、英米法を受講しましたが、英米法コモンロウをこのように判りやすい具体例で説明したものはなかったはず。塚越氏は元同じ職場の優れた後輩で、引き継いだ事業部の一つを大きく伸ばし別会社にした後退職。数社の経営者として活躍。後に公認会計士CPAの資格をとりケンタッキーでコンサルティングの傍ら、米国史の研究を続けておられる。

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