13016
憲法改正に反対する人の矛盾
『憲法九条 私ならこう変える』枝野幸男氏の文芸春秋(10月号)の記事を読んだ。元商社での息子の先輩が持参したおかげで早く入手できたのだ。
断っておくが私は右翼でも左翼でもないと考えている。
(1)議論の理由付け;
この枝野氏の議論は憲法の位置づけが、
1) 憲法は国家権力から国民を守るためにある。
2) だから戦前のような軍国主義を再発させないために、できる限り憲法9条は守りたい。
3) 今までは内閣法制局の条文解釈で、自衛隊の行動範囲を制限してきたから、その解釈はころころ変わる内閣よりは高い位置づけにおかねばならない。
(国民の総意による議員内閣よりも高い組織がありようがないと思うのだが。強いてあげれば同等な立場での司法であり裁判所か)
4)どうしても変えるという内閣が現われたなら、自分は添付のような憲法第9条「第三の道」を提案する。
5)押し付け憲法論は決着済み。(made by Americanだから廃棄すべきという議論に対しては、65年も存在したのだから、製作者が米人だからという理由付けはおかしい。これは私も賛成だが。)
議論の理由付けとして《同盟国の軍艦が共同作戦のために米国の領海から出て、公海にはいり日本の領海に入る寸前に、敵国に攻撃された場合は、日本軍はこれに反撃すべきか否か》という限られた状況での反論である。もうひとつは海外での《A市が攻撃される場合は反撃するとしても、遠くはなれたB市の場合はどうするか》という状況である。
相撲の行事や、上に浮かぶ宇宙船で監視でもしていなければ、平らな海の中で、敵が公開にあるかないかを誰が決めるのか、このような意味のない議論は、ようするに妨害するだけでやる気のない議論のための議論であろう。(これも、どの位の距離が離れていれば”遠くはなれ”ているのか、議論が紛糾する表現であり、非常時に議会でもめている時間はないだろう。要するにこの人は、防衛する気があるのかどうか、こんなマニュアル内容を憲法に書くこと事態おかしい。)
(2)憲法は国を縛るためにあるのか;
枝野氏のいう《公権力行使の「歯止め」という観点からは、護憲派の危惧も、あながち杞憂とは言えません。云々》危惧があるから、国防は現状の解釈だけでよいか、それとも改定すべきか。
これはすでに自衛隊法第三条で《自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし》と規定される法律が1954年からある。
1947年の占領下で施行された憲法より、後からできた自衛隊法が国民の合意を得てできたというなら、これとの整合性をもつために、憲法はとっくに改定せねばならなかったのだが、反対が多く、変えないできた。(当時は筆者も学生で反対したが、殆どの国民が反対したと理解している。)
確かに氏が指摘するように現憲法には国防に関する条項がなく、自衛権は人権の延長としてその集団である国や自治体もあると考えていた。であれば、国としては国民の生命と財産を守るのは当然だということになり、それはもともと解釈ですませるものではない。ましてや隣国が領土を侵略し、あるいは実効支配してきたことを考えれば、国は自衛の一部を手抜きしてきたともいえる。
(3)国を守れないで、人権を守れるか?;
同氏の「第三の道」にある提案は、如何にして自軍に手かせ足かせをはめるかとの観点で書かれている。しかし、逆に考えれば、こんな条件を付けたために国を守れず戦に破れたら、日本人の人権を守るか否かは戦いに勝った側の自由である。
今現在も日本に比較して言論や表現の自由が無きがごとくに制限された隣国に破れれば、同氏の杞憂する人権など守られる筈もあるまい。現憲法では、領土が守れるかといえば、悲観的な現実がある。しかも更に同氏の条件が付加されれば、それで優位に立てるのは敵側である。敵軍が受けている手かせ足かせと同様ならば、同じルールでの戦になるのだ。
提案の中味は現内閣のこれからの議論に委ねるとしても、議論の構成が納得できないのである。
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